ベガ

ある蕎麦屋さんの話

胃炎で少し胃が良くないので、外でお昼に何を食べたら良いかとウロウロ、そういえば、蕎麦屋さんがあった。美味しい蕎麦を食べさせてくれるけど、うどんがあればなあと蕎麦屋に!

よーし!うどんもある。。

時間はすでに1時半、お店にはお客さんがひとりだけだった。このお店、中に入ると壁やカウンター下には手書きの張り紙が多い。私の座った席の前には

本日はご来店いただきありがとうございます。
当店では機械類はいっさい使っておりません。
蕎麦本来の風味、うどんの旨味を損なわぬよう気をつけております。

と長い説明書が書かれてある。

隣の席の前にもメニューとともになにやら。。。

「何にしようか?胃炎だし、胃に優しいのがいいかなあ」と言うと。
「そういう時はお粥でしょう。うちのうどんは腰があって、どうかなあ」と言われてしまったが、月見うどんを頼んだ。まず出されたそば湯、ユズの香りがなんとも嬉しい。

ふと目にとまる張り紙が。

えっ!やめちゃうの!

そこへ月見うどんができあがり。うどん、柔らかめになっている。菜の花、アスパラ、サヤエンドウなど季節の野菜がしっかりとそして卵と海苔、いやいや美味しそうな。。。ここで写真をというところですが、ボケてしまって。。。美味しかったです。今でも思い出すだし汁の味。。。口が覚えている

蕎麦屋のご主人に「お店、やめられるのですか?」と聞くと
「30年間、やりたいことを全てやってきたから、もう仕事をしないでゆっくりしたい」
私「ずいぶん拘られてますね。この書かれたものを読むと素材、味にもとことん拘られて。。。」
「そりゃ全国から取り寄せてね。肴も。特にお酒は幻の酒と言われる名酒が多いよ。」と

私にはわからないですが、お酒好きには確かに手に入らないお酒が多いということらしいです。

私は蕎麦が美味しいのでやめてもらいたくないのですが。。。
幻のお酒に拘るとか、肴も、素材、出汁とか、かなり気をつかってこられると凄くエネルギーを消耗するのかもと思ってしまいました。

このお店「傘亭」は高田馬場駅から早稲田通りを西に戸塚公園入り口の信号、バス停だと駅から二つ目近くにあります。蕎麦好き、お酒好きな方、お勧めですよ。有名らしいけど。。ネット検索できます。

冬の中田島砂丘

最近、自転車に乗ると、以前よりも軽快に走っているように思える。今日(昨日)は風もなく、暖かかった。午後、駅の方に出かけた。風をきって走るのがなんとも心地よい。用事をすませたら、少し長い距離を走ってみたいと思った。

すでに15時をまわってしまったけど、やはり走ろう!
この感覚は体育会系かも、なんてつぶやきながら、中田島砂丘を目指す。この道は車が引っきりなしに通るから、避けたいのだが。。若者が追い越して行く。急がず、ゆっくりと行こうと自分に言い聞かせて。

前の時は今日に比べると身体が重かった。あの時はやはり病気が完治してなかったのだと今、思う。こんなに軽くこぐことができる、と思うと自然に顔がほころんでくる。鼻歌を歌いたい気分だ!

所要時間20分?砂丘の入り口に到着。誰もいない!自転車を止めて、海の方を見るが、人の気配なし。とにかく海に向かって歩こう。いやに静か!うーん?

砂丘の入り口から海までは5分では行けない。さすがに自転車を20分ほど、こぎ続けた後なので砂丘に足をとられる。誰もいないのはコワいけど、ここまで来たら、海を見ないと帰れないという気持ちになっている。

着いた!静かな波だ。それにしても誰もいない。ここでパニック状態。なんて臆病なわたし。
すぐに引き返す。。。

戻ると犬の散歩の人が砂丘に入ってこられる。そしてすぐ後から2人、海に向かって進んでいく。よし!ちょっと休んで私も、もう一度行ってみよう。

今度は不安もなく、周りを写す余裕がある。新しく作られた堰砂垣が美しい。

離れた海辺で人が波と遊んでいる。

このいくつもの足跡。
で、足下を見ると。。。

風化していない新しい靴跡が。

これはさっきの散歩中の犬かしら?
足跡が風化されないで。。ということは今日、意外と多くの人が訪れていたのでした。

で、今日の記念に。私の足跡はこれ!

そして目は足跡のない波紋を捉える、よく見ると!丸い石ばかり。

自然が織りなす造形!

波紋の中に石があることで生まれる微妙。

こころにくい自然の造形美!

海が運んできたものが白く風化して存在していたり、こんな場所なのに植物が根を張っていたりする。中田島砂丘にはまだまだ思いがけない発見がありそう。

時間を忘れてじっくりと浸った一時間でした。
そして一人よりも複数いる方が落ち着く一時間でもありました。

帰りは車がそんなに走らない道を見つけて、快適に飛ばしました。
自転車で走るのは楽しい!

いつもは夜更かしの私が早めに寝てしまいました。健康的だこと!

愛車で

今日の浜松は晴天!

こんな日は自転車で動くのが早くて楽しい。
ということで私の愛車。

乗る時の必需品。
左から、リュック、上から簡易ヘルメット、帽子、耳あて、その隣は手袋。

ヘルメットを装着するとあまりにもサイクリングのようで。。。
で、最近、帽子にかぶせるタイプにしています。
この自転車には買い物をした後で入れるカゴがついてないために、この大きめのリュックが役に立ちます。野菜や魚、パンなど、もろもろを背負っても自転車なので腰に負担がないのがなによりです。

ということでこんな風に走ってます。今朝はリュックなしでした。

毎日、進めていく

このところの小さな綴れ織り、少し気持ちダーク気味で織ってしまう。冬を意識しているせいもあるけど、その時の気持ちが色選びに影響してしまう。白と青と濃いグリーンと灰色と茶色が軸になる。それだけだと単調だったり寂しくなるので基調の色にできるだけ赤や黄色を入れるのだが。。。

そのために全体に締まりがなくなる。うーん!難しい。
気のままに織るのがマズイのか。

やはり気ままでも骨格は変えてはいけない。
と反省しながら、一つ一つ、作り上げていくしかないのだが。

さてさて次の作品に入るかな!

家を建てるということ

家を建てかえることにした。息子夫婦と暮らしはじめて3年半、そろそろ二世帯住宅にしようかということになった。年代の差、価値観の違いでお互いにストレスを感じるよりは、同じ敷地内に二家族が分かれて住むという選択をすることになった。

家を建てるということ。簡単ではない。もちろんお金も要る。できるだけシンプルでいいのだが、始めると持っていたものを捨てて良いのかという思いにかられる。消費社会に生きているしっぺ返しがもろにくる。贅沢な暮らしをしていたものだと思う。基本になる家そのものは新築だけど、家具などは今までのものを使うということにしているが、その選択が難しいのだ。

ずっと使ってきた家を二つに分けるのだから、今までよりも狭くなる。気に入って買ったものもばかりのはずだから、捨てることに抵抗がある。どうしても収まりきれない。今や捨てることも美徳のように言われる時代、よく考えるとやはり何か間違っているように思える。

消費社会にすっかりのせられて、ついつい買ったものが過剰にある暮らしなのだ。捨てることは当たり前になったけど、本当にそれで良いの?と思ってしまう。

便利な暮らし、過剰にある物、それに囲まれていたこと。今もいること。
そこをしっかりと自分に中で整理しないと実は家を建てることが前に進まないということに気づいた。

地震と原発事故のあと、原発をなくすために私は何ができるのか、考えた。まずは電力を湯水のように使う今までの暮らしを見つめ直すことに他ならない。具体的に言えば、食洗機が要るのか、便座は暖かい方が良いのか、床暖房が良いのかという。。。それって、豊かなのか??

消費することを抑える。暮らしそのものを今一度、見直す。
家を建てかえるということ。それはとても大変な作業であり、自分の暮らし方、生き方を問い直す重要な機会を与えられたのだと思い、なかなか前に進まない。

カウンセラー?

子どもと共にいること。

私は遠い昔、保育の現場で働いていた頃、同僚から、あなたは「何も構えず、こどもに入っていけて良いわね」と言われたことがあります。たしかに初めて会う子どもを受け入れる時にどう受け入れようとか、など考えたことがなかった。

何の抵抗もなく子どもと共にあるから。いつだって子どもの心に触れることは難しいことではなかった。それに子どもの遊びの発展に付き合うのは楽しかったのです。若かったから、全身で臨んでました。

それから時が過ぎ去って、自分の子どもも成長したある日、そんな話を友人にした。そうしたら、その友人が言うには子ども好きのはずなのに私が他の子どもがいても全く興味を示さないし、一緒に遊ばないのはどうして?と。子どもが好きではないのではと。

私は子どもと自分が遊ぶことを目的に子どもに接していないのです。保育者は子どもの全てを受け入れる立場にあって、その間、その人の人生と向き合っています。遊びは子どもの成長にとって、とても重要です。遊びが全てなのかもしれません。遊びをとおして、自発性、積極性、集中力、探究心、社会性などを身につけていくのです。それはこちらのペースで行われるものではなく、子どもが決めていくものなのです。それを受け入れ、見守り育てるのが保育者の立場なのです。

だから自分からは行動しないし、遊ばせることもないのです。求められれば、自然に入り込むことができる体制は常にあるのですが。必要がないところでは何もしないのです。それは常に変わらない私の姿勢です。

自分の孫にも同じです。可愛いから、いろいろ遊具も揃えていますが、遊んであげることはしません。でも孫は私のところに来るのが好きで、特に少し精神的に不安定になるとやってきます。しばらくいるとすっかり笑顔になって帰っていきます。特に何をしているわけではないけど。。

そういった姿勢からか、なぜかわからないけど、私は不安な人の心に抵抗なく入り込んでしまうことがあります。そして、いつのまにかカウンセラーになっている自分を発見する時があります。それを長い間、すっかり忘れてました。つい最近、会った人の心に入って、そうなっている自分に気づいて思い出したのです。

本来、もっている自分の性格?を再確認しました。

カウンセラー!?
でも私はその人と一緒に心を動かすので心の消耗が激しく仕事にしたら向いてないのです。
孫が求めた時に受け入れる、おばあちゃんカウンセラーが適しているのかもしれません。

親友

ずいぶん長い間、ゆっくりと話すことがなかった友達。

大学に入って、最初の出会いはもう覚えていないけど、どういうわけか、とても気があって、いつも一緒だった。青春時代の多感な時期、話すことがいっぱいあって、毎日、出会っていても尽きることがなかった。読んでいる本の話、好きな詩集のこと、恋の話などなど、声をだして話すとまずい授業中には筆談したりしていた。

何が原因だったか覚えていないけど、喧嘩したことがあって、授業中、違う場所に座る一週間があった。他の友人達がヤキモキして気にしたほど、仲が良かった。そんなこともすっかり忘れていた。遠くに離れてしまうと会う機会が減って何年もお互いの空白の時代ができてしまった。

久しぶりに会って食事をしながら、最近のお互いの話をした。

同級会などで同級生に会うと昔はこんなことがあったとか、その頃はどう思っていたとか、今は何をしているといった表面的な話で終わることが多いし、次にまた会おうと別れても次はないことが多い。

親友というのは何年も会ってなくても、会うとお互いの琴線に触れる話にいつのまにか入り込んでしまうらしい。あの青春の多感な日々を共にしたからなのか、それとも同じ波長のせいなのか。彼女の話は面白かった。年を重ねてこそ、わかる人生の深み、ふっと肩の荷が降りるようないい話を聞いた。

若かった時代、彼女はバイオリンを弾いていた。今はチェロにすっかり嵌っていると前に会った時に聞いた。とてもナイーブな人だから、チェロの音に惹かれたのはなんとなく解る。「すごく落ち着くの」って。

彼女に会って、私自身、忘れていた何かを取り戻した気がする。最近、ふと我に返って自分をみつめていた、ちょうど良いタイミングでもあって。。。

彼女も楽しかったらしい。今度は彼女達夫婦と会う約束をした。私と彼女と彼は同じサークル仲間だった。(^-^)

親友って、いい!

あの日あの時…

落ち葉を踏む音。カサカサ!「ほら!カサカサって音がするでしょう。面白いね!」こんもりと積もった落ち葉がどこまでも広がる。息子に声をかけながら、じつは私が楽しんでいた遠い昔を思い出して、公園に行こうと思い立った。

すっかりビルばかりになった通りを歩いて、坂を下り、踏切を越えて、信号を渡る。昔と同じ道。公園の入り口を入ると整備された公園内、大きな道と小道がいくつかある。あの頃はこんな大きな道はなかった。高低差のある広い原っぱに近かったような気がする。

くるりと見回すと目に飛び込んできたのは林。樹々に包み込まれたような感覚を覚える。少し気分が落ち込んでいたのだが樹々のオーラに包まれて消えていくのを感じた。

道を登っていく。そこにはまた違う景色が現われた。

そしてもう少し進むと、かがんで写真を撮っている人がこの構図が良いと勧めてくれた。

進むごとに違う種類の樹々が現われる。

それにしても35年以上、こんなに木は太く大きくなるんだ!

あのカサカサという音のする場所はどうなっているんだろう?広葉樹の多い林のはず。
公園内はかなりの広さなので当時まだ2歳だった息子を連れて行くとその場所まで一時間はかかった。考えたら、その子も今はお父さん。大きくなったこと。

今、園内には自転車道もあって自転車も貸している。
自転車練習用に作られた場所もある。

そこを過ぎたところに。

落ち葉も、モグラの穴も、ありました。

昔に比べたら、少ない落ち葉です。あの頃は靴が入り込んでしまうような深さがあった。今はそんなことはなかったけど、この場所に間違いないのです。すっかり整備されて、遊歩道ができて、落ち葉を踏むようなこともない。落ち葉を抱えてバラまくこともないだろう。小道を自転車に乗った子供達が走り抜けていく。

遠い日に思いをよせて、なんだか、あの時代は良かったような気がしました。

そこを後にして進む。
まだまだ一周してないのです。ちょうど半分きたところですから。

くるりと公園の端を回っているので途中で公園の真ん中を写してみる。
といっても全てではなくて、ほんの一部ですが。

正面の入り口に近くなると2〜3人組の若者達が何組も、漫才かなあ、それとも舞台かなあ、大きな声で練習している。ほとんど男の子なのが不思議。
その近くには黄色い世界。

公園の正面付近は都会化していて、写真を撮る気にならず。。。ベンチにも芝生にも人が多い。忘年会?まさか?何人か集って楽しく賑やかなグループも。犬の散歩、ジョギングなどなど。人って群れるんですね〜。

これ!洋風な。。。

その場を過ぎると葉が落ちた樹々が。
「ここは紅葉が終わってるのね!」という会話が聞こえる。

この木は木を守る人々によって生き返った木だと説明があった。

上の写真の正面に写ってる小道を入ると最初の場所に戻った。所要時間2時間。

その道の途中で出会った人は「この構図、良いよ」と教えてくれた人だった。ニコニコと声をかけられのだが外国語でよく解らなかったのが残念。

代々木公園!
昔とは変わってしまったけど、散歩コースには良い!

家族と過ごして

久しぶりの日曜日、朝「今日は何か予定ある?」と息子に電話した。「あっ、ちょっと待ってね。後で連絡するから」と何か、ばたばたしているのが伝わってくる。

まっ、急ぐ話でもないので綴れを織ったり、家の中の雑用をして過ごす。お昼も済ませて、それにしてもと電話すると「今、公園にいるよ」「いただいたお菓子があるけど」「じゃあ、そちらに行くか」ということでやってきた。

息子と二人の孫、上が3歳になったばかりの男の子、下は1歳半の女の子、「おばあちゃん!」と玄関から、おもちゃのある居間に突進!あっという間に部屋の中は子供部屋と変わってしまった。

小さなこどもの本棚から彼が好んで出してくるのは、昔、息子たちが読んでいた古い本、トーマスシリーズ、意外と長い文章の本なので読み聞かせるのはまだまだだ。けど絵を見て簡単に話すことはできる。半年前に話したことを覚えていて、彼が説明してくれる。いつのまにかトーマスの仲間の電車の名前も全部、言えるようになっている。YouTubeなどで覚えたらしい。いつものことだけど、なんども同じ本を最初から読む(見る)のをリピートさせられた。

彼女は女の子なのにお兄ちゃんと同じが良くて、女の子らしいおもちゃに興味がない。彼の遊びに次々に侵入し、なぜか取り上げてしまう。そのたびにお兄ちゃんに倒されたりして痛い目に合うのだけど、けっして負けない。そしてとうとうお兄ちゃんが悲鳴をあげる。彼女の歯形が彼の手に。いつものことだけど。。

それぞれ別の遊びをすれば良いのに子どもが集まるとそういうもの。ほかの子の遊ぶものに興味をもつ。で、けんかになる。人間ってやはり人の間が好きなんだ。

『あーんあん』の本は大好き。彼女。いつのまにか「あーんあん」と大きな口をあけて一緒に声を出すようになっている。子どもの成長って、すごい!

彼らのママは論文の発表で午後から出かけて、息子が子守りをしていた。ので息子は疲れて一眠りしている。それでもオヌツを交換したり。。。上の子が生まれた時以来、いつも子どもと共にいることを幸せに思っている息子の姿を見てきた。母としてはとっても嬉しい。

ママが終わって迎えに行き、ママの誕生祝いをしようと外に食べにでかけた。

お店の人が気を利かして子連れでもゆったりできるところに席を取ってくれた。バイキングだったのでみんなで山のように皿を重ねてしまった。なんという家族か!!

その席での息子夫婦の会話。お互いに同じ職種。専門資格をとらないといけない世界なので来年は一年かけてなんとかクリアしようと言う。仲間の誰かの勉強方法、ネットを使った方法などなど情報交換に余念がない。子どもたちはその中でたくましく野方図に育つ。保育園でどちらもボス的な存在になりつつあるらしい。

そうそう、親子ともに頑張れ!
家族と過ごす時間はじつに楽しい。それに教えられることも多い。
孫のようにたくましく、息子たちのように目標をもって、今のようにひとりではなく人の間にいたいとつくづく思う。

山越え

再来年の一月のグループ展に向けて、自分の展示場所もあらかた決まった。と言っても美術館の学芸員の方の意見を聞いたわけではないので確実ではないが。

どっちにしても作品は自分の表現でしかないわけで。。。情報収集しないと。

里山の変化が知りたくて、先日も但馬に帰った時に車で走りまわった。台風や雨で崩れた場所が多いのとトンネルや道路ができて山越えすることもなくなって、かっての山路は使われなくなっているところもある。

この山越え道、お葉つきイチョウを探していたのだが、あったのは「なんじゃもんじゃの木」だった。なんじゃもんじゃの木とは縁結びの木だとか。どれどれ見てみようと。

風化した神社の階段を上がる。

ありました。

しめ縄も張ってるし、この集落の人の手がかかってるのはわかる。下から覗くと山も手入れされているのだが。。どうもそれ以上、上がるのは勇気がいってやめてしまった。妖気が漂う!のだ。

振り返るとこんなに美しいんだけど。

階段を降りる時、近くの民家の犬に吠えられ、ニワトリに覗かれて。。


今の時代、こんな山奥にも暮らす人がいるのを不思議に思えない。ずっと昔から住み着いている人たちなんだろうと思う。

峠を過ぎて少し走り、また下に降りる手前の部落に人影がない。分校も閉鎖されて、校舎に描かれた太陽が昔を思い起こさせる。都会から田舎に移ってきた家族が居た家も朽ち果てて、牧場だった所も潰れていた。その道の下、覗くと一軒だけ車が止まっていた。炭焼きの家族の家だろうか?

道が下り始める。先ほどの登りに比べると視界が開けて、かなり下に家々が見える。こんな高いところだったのかと驚く。忘れているのだ。全く何度も来ても同じ感動になってしまうように思う。と、オートバイの音が後ろに。3台いる。どうぞ!と先に行ってもらう。彼らはカーブをきりながら、続く林中に消えて行った。

山路のカーブは好きだけど、久しぶりなのでゆっくりと。それにもう若くないんだから、注意して。。なんてひとり言を言いながら。もう一台、オートバイが接近、先にいってもらったけど、慣れないらしくて、あまり差が開かない。山路を降りたところに3台のオートバイが彼を待っていた。

それを横目に見て、先を急ぐ。
家に帰るかどうかの分岐点でまた次の山越えの道を選んでしまった。
全くつくづく山路が好きなんだ!わたし。

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