昔の話

久しぶりに故郷に

 いつものように和田山駅ではこの機関庫を撮る。周りに咲く黄色い花が風に揺られてて爽やかでした。

 福知山から乗り換えた特急はちょっとオシャレな車両で木を使った内装になってます。

 京都から新幹線で名古屋まで行った後、故郷の美濃大田まではいつもはJRで特急『ひだ号』で行くか、名鉄を使って鵜沼でJRに乗り換えるルートを使うのですが、今回はJRで中央本線で多治見経由、太多線で行くことにしました。

 さて、中央本線の高蔵寺を過ぎると車窓の景色はそれまでは住宅地が続いていたのに突然、山間に入ってしまいました。窓の外は渓谷、その上、乗客もほとんど乗ってない状態になり、定光寺駅で前の車両の一人が降りると誰もいない状況に・・・

 古虎渓という駅が次、その名前は遠い昔の記憶がふと蘇る・・・子どもの頃、遠足かなあ行ったような・・景勝地

 そしてトンネルを抜けると多治見の町が・・何事もなかったように。それは私にとっては驚きでした。多治見で降りると、もっと前の車両に乗ってた人、学校帰りの生徒達が見えて一人じゃなかったって、妙にホッとしました。

 その後、上の写真の見える左手の電車、太多線で美濃大田に・・この電車に乗るのも初めてかもしれません。この電車は木曽川をを渡ります。

 上の写真は渡った時のダム湖ですが、反対側がダム、でダムを撮ろうとしたら一瞬で間に合わなかったです、そのダムの下で父が魚を釣ってたので写したかったのですが・・・ダム湖の先に伯母が居たホームがありました。ここは伯母を思う懐かしい場所です。

 さて、美濃大田駅に着きました。その後、父母の墓参りを済ませて、思い出のなかで最も懐かしい木曽川に向かいました。

 今は河原に行くには10m以上の堤防(写真は堤防から)があるので、その階段を登り降りするのをやめて、眺めるだけ・・大きな川だとつくづく思います。

 子どもの頃は学校からこの河原を遊びながら、帰ってきたものです。家まで2km以上かな?家に着くのは夕方だったような・・

  

 実家のあった場所は駐車場になってました。何も思い出が感じられないところになっていて、ちょっと寂しい!

 名古屋まではひだ号、車窓からの景色は子ども時代や中学生の頃に通ったり遊んだ田んぼです。今でもまだ田が残っているんだと・・美濃加茂市は駅北が今では規模の大きな住宅地に変化していて、その変わり様は昔を思い出せないほどになっていて、浦島太郎状態・・ですが。。この景色はそれほど大きく変わってません。

 高校時代に車窓から見ていた景色も、車窓から日本ライン下りの難所が少し見えてます。

 ・・・という今回の故郷紀行でした。

④ 竜ヶ石山ハイキング

 健康ハイキングの6月は26日(2000年)でした。竜ヶ石山が目的地でしたが、その日は朝から雨でした。それでも辻田先生は雨が降ろうとよほど激しくない限り、ハイキングは決行しますということで浜松駅に集合し、バスで「竜ヶ岩洞」へ。

 そこから竜ヶ石山に登り、 初生の鐘を鳴らしたように記憶してます。

 ここからは富士山や浜名湖などが見えるらしいですが、何も見えない・・↓こんな感じで残念でした。

 

 竜ヶ石山ハイキングの良いページがあったのでリンクを貼っておきます。晴れていたら、とても良い思い出になったことでしょう。https://www.doukutu.co.jp/hiking/

 雨が強くなってくるし、寒いし、濡れるし、何も見えないし、これ以上、ハイキングはやめた方が良いということで「竜ヶ岩洞」に入ることになり、400mほどの鍾乳洞を一回りし、なんというかレトロな売店などを見てる間に温まり、山歩きとは程遠い時間を過ごして帰路に着いたことを思いだしました。

鍾乳洞の様子を撮ったようですが・・カメラがイマイチだったのかな?

竜ヶ岩洞 https://www.doukutu.co.jp

③ 小笠山に

 

 小笠池

 2010年5月15日、初めて参加した「健康ハイキング」、行き先は掛川市の小笠山でした。掛川駅で集合したような・・曖昧な記憶です。小笠池から小笠神社を通って、小笠山砦、小笠山の頂上に、その後、尾根を歩いて下山、茶畑を通って帰りました。

 山歩きをしていると神社が多く、ここ小笠神社は山頂に向かう遊歩道の手前にあった。大宝年間に文武天皇が創建されたとされる神社、創建から1300年なんですね〜

 神社までもかなり登ってますから、結構、山の上です。と言いながら、よく覚えてません。

 

 神社から10分ほど歩くと小笠山の砦という標識が。ここは笹ヶ峰御殿があったところです。徳川家康が築いた城跡です。今川氏の掛川城を攻略するために、ここを本陣をしたそうです。そんな歴史を紐解くといろいろと見えて面白い!のですが・・

 そして10分ほど、歩いたところが小笠山頂上です。目が開いてません。(^^;;

 頂上から少し歩いて、小休止・・・この日はお弁当を持っていかなかったのか? うーん!どうだったのか?(11時36分・・・)

 ここを下る時間は12時・・・このような下りは意外と足の運びが難しく、初めてだったので、辻田蓉司先生の後をついていったのを覚えてます。

 静岡はお茶の産地だから、山の斜面から集落までに茶畑があることは当たり前の景色なんですね。茶畑を見ない地方に住んでるととても珍しくて、それだけで感動したのを覚えてます。

 30分後、里に降りたところがあまりにも普通の道(舗装されて車が通る)だったのでなんとなく拍子抜けしたことを思い出しました。この小高い山が小笠山なんでしょうね。

  

 

② 粟ケ岳〜松葉の滝

 

 8月21日、佐夜鹿の集落からが登山の始まりだった。真夏のせいか、この日の参加者は少なかったように記憶してます。この場所までは平坦な道でしたが、楽そうに見えたお茶の段々畑、登る前に見えてた以上にキツかった。

     

 足元には可愛らしい花が咲いてました。↓花の名前はわからないです。

 

 倉真という地名の場所を歩き、粟ケ岳頂上に向かって行くと岩、石?でしょうか?奇石が多いのはこの辺りの山の特徴だと思われます。磐座といわれる石を見る。

 粟ケ岳頂上にある阿波々神社で休憩、昼食を・・・粟ケ岳、この時は何もなかったと思うのですが、今は近くに茶草葉テラスというブランチレストランもあり、車で行けてしまうのです。

 阿波々神社を出て、眼下に集落を見ながら、登って行く・・・

ヒオウギ

 この日は足元に咲く花も楽しめました。花の名前を調べてみるのだけど分からなかったです。その時、辻田先生には教えていただいたのですが。

 今は新東名高速道路がこの場所にあるけど、この時にはまだない。といってもこの場所はトンネルなので・・・変わらないかも

この花の名前も分からないです↑

 登山道は山の中に入ってしまう。周りが見渡せない場所はやや不安だったことを思い出します。歩いてると聴こえて来るのはせせらぎの音・・

 その音が大きくなってきたので、川岸まで寄って覗き込んでみると水は急激な速さとなり、そこで下に落ちていた。それはゾクゾクしてちょっと怖かった。

 そして登山道は下りになり降りていく。下に着くと川は登山道よりも少し下にある。そこで下に向かう。と、そこには「松葉の滝」と言われるかなり落差のある滝があった。この落差では覗いた場所から落ちたら、大変だったとゾクっとしました。

 その下で遊ぶ子ども達、滝に打たれる人と・・・我々は濡れてしまっては困ると眺めるだけに・・こんな素晴らしい滝に出会うとは思わなかったです。

 滝に向かう途中の道は掛川市指定保存樹林(スギ、ヒノキ)と書かれてあり、真っ直ぐに伸びた樹が美しい。

 この日はこの後、どうだったのか?その後の写真がなく・・・確か下に降りた場所に温泉施設(たぶん落合荘)があって、汗を流した記憶があります。バスタオルがなくて、困ったことも・・

 こうして思い出して書いてますが、書き始めはどこをどう行ったのかが分からず、けど写真の場所がどこか分かるのが今の写真アプリで、その情報を元に検索して場所を特定してます。そうするとそうそう!そうだったと思い出すのです。

健康ハイキング

 浜松と但馬を行ったり来たりしていた頃、私は浜松で「健康ハイキング」(月に一回、第3土曜日)に参加してました。今から思うと良い体験だったとつくづく思います。

 先導されるのは辻田蓉司先生、あの頃、70代後半、太極拳の師範で、当時、地元、豊橋ではシニアライオンズクラブの会長でいろんなスポーツを支援されていたようです。登山は20代の頃から多くの山を楽しんできたと聞きました。若い頃に落ち葉の上を歩いていて、端に気づかず、踏み外して転落を経験し大怪我をしたけど、それでも登山が好きで続けて来たと話されてました。

 私はうんと若い時に木曽駒ヶ岳を登って以来、登山は行く機会もなく、60代になってました。高い山に登るのは抵抗があるので、ハイキングだったら出来るだろうと参加しました。

 4月からの会でしたが、途中から参加したように思います。このパソコンに残っている写真は2010年の7月の第3土曜日からで、その年の10月16日まででした。次の年には定員割れで終わってしまいました。すごく残念に思ったことを覚えてます。

 9時頃に集まって、帰りは3時過ぎになったように思います。急がずゆっくりと呼吸は3回吐いて、2回吸うと言われたような。。けど、3回吸うはなかなかでした。今でも2回吸って、2回吐くとなってるような気がします。この頃はカモに気がいってて、息を確認してない。どうなんだろう?

 確か昔のブログには「健康ハイキング」のことを書いた記憶があるけど、そのブログは閉じてしまって、私自身も見ることができません。今回、自分の備忘録ということで書いておくことにします。

 

父の車

 このところ、このノートパソコンの調子が良くなくて、アップできない日が続き、パソコンの中身を減らして、やっと書くことができます。

 今から60年ほど前の話です。昭和30年代に父が初めて買った車の写真が出てきました。ダットサン210型だと思います。この場所は医院の前の道かな?

 昭和30年代、まだまだ戦後の情景です。確かに道は舗装されていないので、岡田産婦人科があった場所なんだと思いますが、記憶に残ってはいません。

 横から見るダットサン210型 

 その後、日本車はどんどん増えていったように記憶してますが、父がその後、どんな車に乗っていたのか、よく覚えてませんが、昭和38年の頃、私は車の免許を取ろうと父の車をガレージから出した時に父が止まれと言ってるのに止まれず、車の横に付いていたモールがはがれて、ひどく怒られ、運転練習は先延ばしになりました。たぶんトヨペットの車だったと。

 父が嬉しそうにモデルさんと写ってます。この車はフォード・タウナス(ドイツで生産された)です。始めての外国車でした。下の写真には66という数字がたぶん1966年(昭和41年)に買ったのでしょう。

 父は昭和45年の1月に他界してます。まさかこの写真の4年後に・・・父がいなくなるなんて、父自身も思ってみなかっただろう。。。

 父が病気で入院した時に私は東京での仕事を休ませてもらって、私が父のそばに付き添うことになりました。そして、いよいよ車の免許を取ることになりました。当時、運転の練習は教習所内に造られたコースを借りて、教習所の車か自分の車で練習するというものでした。一緒に助手席に乗ってくれる人もいたように記憶してますが、今のようなシステムではなかったのです。

 そして運転免許を取得するには警察の運転免許試験場に行って、学科試験を受け、合格すると二回の実技試験が認められます。私は実家の岐阜県で受けました。実技試験は減点式でしたから、途中で「はい!ここまで」と言われたら、落ちたということです。

 学科試験の二度目を終えて、実地試験3回目、私はほとんど男性ばかり50名以上の試験場で確か2名の女性だったので、他の受験者が「頑張れよ!」と応援してくれました。合格した時はみんなに「お〜!3回目って!すごい!」と祝福され、ちょっといい気持ちになりました。(笑)

 昭和43年の夏でした。

 初めて家から運転して、父が入院していた名古屋大付属病院まで(約40㎞)運転した時の緊張感は今でも忘れないです。父も心配で居ても立っても居られなかったようです。タウナスだったのか?記憶になく、その日、病院に泊まり、朝、起きて車を見に行ったら、タイヤ4本とも盗られてました。

 いやいや、とんでもないことでした!!110に公衆電話から、かけるのが、なぜか119になってしまって・・・携帯なんてない時代、全てがアナログだった時代。めちゃめちゃ焦ったのを思い出します。

 そんなこんなでの私の車人生の始まりでした。

 あれから52年も過ぎたのですね〜

 

盆踊り

 岐阜県郡上市八幡町の盆踊り、50年以上前から有名でした。私が育った美濃太田でも当時は盆踊りが盛んでした。その時代でも郡上八幡での徹夜踊りに行くのは若者たちの楽しみで、うちに住み込みだった若い看護婦(当時はこう呼ばれてました)さん達は仕事が終わると出かけて行って、朝になって帰って来てました。当時、美濃太田の盆は23~ 25日でした。郡上八幡は13~16日なのです。

 私は踊りであれば、なんでも好きなんですが、今にも至るまで郡上八幡に行ったことがありません。5年前の夏だったと思うのですが、岐阜から飛騨、立山への一人旅を企画した時に郡上八幡近くの宿を探したのですが、満室で取ることができずに諦めました。いつか、訪れたいと思っているのですが。今年はコロナが阻んでます。

 昨日のTV「新日本風土記」は郡上八幡でした。それは私の子ども時代から青春時代の再現のようでした。盆踊りの踊りも歌も盛り上がりも全く同じでした。私も、中学高校時代、大学から帰省時もやはり踊り続けて朝帰りでした。

 故郷、美濃太田は郡上八幡のような昔からの町並みは旧街道(中山道)で、活気があったのは駅からの木曽川までの大きな通りでした。なので、出し車は郡上八幡よりも大きかったように思いましたが、20時頃から始まって明け方まで踊るのは同じでした。その日だけは学校も夜中に出ることを黙認でした。

この写真はTVからの画面です。

 盆踊りの曲は「かわさき」「さば(春駒)」「炭坑節」「東京音頭」などなどでした。上の写真の「アソンレンセ」という歌詞は「かわさき」です。全国区というか、有名な盆踊りの曲が流れてました。

三味線、太鼓、笛、唄を歌う人が乗って演奏されてます。

 美濃太田では囃子の楽器を演奏するのは芸妓さん達でした。出し車は確か二、三台、唄を歌うのは男性でした。その歌う声と囃子は何個かの拡声器から流れてました。踊りがピークに達すると踊りの輪は1㎞往復の輪になるだけでなく、それが三重の輪となります。賑やかでした。

これはTVの画面ですが、このような輪ができていました。

 昔の写真を探せば、たぶん残っているだろうと思うのですが・・・

 懐かしくて、わくわくする日々を思い出しました。

 

洪水で・・・

 私は飛騨の山奥で生まれ、木曽川のほとりで育った。木曽川の中流域にあたり、普段の川幅は300mほど、河原はかなり広く、丸くなった石ころがゴロゴロと続き、場所によっては大きな岩もある。小学校の帰りはいつも河原で遊んでから家に向かう日々でした。夏になると川遊びをしたものです。当時はプールはなかったので泳ぐのは木曽川でした。流れが早くて、泳ぐ練習にはならなかった。

 大雨が降ると河原は全く見えなくなり、川幅はいつもの二倍に広がって、上流から大きな流木が流れてくる。その光景は毎年、当たり前のことでした。今では考えられないけど、雨が収まると川を見に行ったものです。流れてくる流木をうまく引き上げる人もいて・・自然に生え折れた流木ではなく、加工した材木なので引き上げれば、売れるからだ。今では考えられない話である。

 この場所はたぶん、川沿いのお寺の境内だと思われる。河川敷よりも数m上になる。水に漬かってる木々は下にある遊歩道に生えている。写真は白黒なので昭和30年代ではないかと↓

 この時、川からの水があふれ流れている道路もありました。川が大きく蛇行する場所、そこは少し低くなっていて、毎年のように水に浸かるのです。

 1983年9月28日、木曽川は台風10号による観測史上最大の洪水でこの町の中心街を一瞬のうちにのみ込んだのです。実家は川から1㎞以上、離れた場所にありました。実家のすぐ下の家の一階は水に浸かったのです。そこよりも1m以上、高かった実家は免れました。その後、町で店を出していた人々は閉店を余儀なくされたり、夜逃げをしたりと、人の人生を狂わせる大きな災害でした。

 それから10年ほどして、久々に実家に帰り、木曽川に行きました。川は何事もなかった風にとうとうと流れてました。

 がしかし、下まで降りるには、こんな急な階段でした。こんなに高くて頑丈な護岸工事をしないと濁流と化した水を避けることは出来ないのだと思ったものです。

 テレビに映る濁流と化した川の勢いを見て、温暖化で大きく変化していく自然災害の怖さ、決して人ごとではない。新型コロナにしても・・・たぶん、人がいきすぎてしまったツケなのだろうと。。。

今朝、妙な夢を見た。夢の中では自分の家だった。けど起きて思い出すと知らない場所だった。夢って不思議なものだけど。。。登場する人も知らない人だったり、知っていても全く夢の場につながらない人だったりする。

今朝の夢もそうだった。この10年に会った人とうんと昔からの人、全く知らない同士なのに夢の中ではお互いに知り合ってるように話をしている。

なにかな?私の深層心理のところが見えているのか?不安を感じてしまった。

つい最近、父の姉、伯母が他界した。それを知らなかった。ごくごく身内で見送ったらしい。伯母は私が子どもの頃から50年、父が亡くなった後も母と一緒に暮らしていた。我が家では母が父親役で伯母が母親役だった。ことある毎にまるで母のようにいろいろしてくれた。おふくろの味も伯母だった。子育てで大変な時期にも助けてくれた。

ちょうど今の私の年代だったのかなあ。伯母は隣に、母は後ろに。

伯母の料理はとても美味しかった。83才だったかな、もう料理を作るのはやめたい、母も仕事をやめると言い出して、それぞれが違う場所に移ってしまった。母も伯母も実の姉妹ではないけど、50年一緒に暮らすと最も近しい間柄になっていた。で、私の家にふたり一緒にやってきて長く逗留していた日々もあった。

ある年、伯母は足がむくんだ状態でやってきた。以来、心臓が悪くなり、我が家にも来れなくなり、なかなか会えなくなってしまった。母も伯母も90才を過ぎていた。ふたりは会えない時には電話で話していたがどちらも耳が遠くなって電話でも話すことができなくなり。。。そして、ふたりとも、車椅子の生活になってしまった。

伯母が亡くなったことを母に話すと、一瞬、驚きの表情をした。けど、そんなに悲しいようでもなく、受け入れている。同じ墓に入るつもりなのでまたそこで話をするらしい!母も生死の狭間を行ったり来たりして、今は元気だがいつどうなるか、わからない。だから受け止め方があっさりなんだ。。と書いていたら、弟からメールが入って、昨日、母が低血圧でお風呂で意識を失ったらしい。今は元気だとか。

伯母にはいつでも会えると思っていた。けどついつい後回しにしてしまった。見送れないと大きな悲しみは襲ってこないけど、じわりじわりと思い出す。その度に別れの寂しさを感じる。

夢には伯母は出てこなかったけど、なぜか夢から覚めた時に思い出す。

祖父の家

私たちが32年前に建てた家を二世帯に建て替えることにしました。
一部屋だけが和室になります。椅子とテーブルの生活に慣れてしまった現在の暮らし。
けど、私は障子、襖、畳、床の間がある部屋があって私の家が成立すると思ってます。

遠い昔、祖父の家に夏休みになると行ってました。今でも家の様子が目に残っているのです。玄関に入ったとたんに漂う薬の匂い、畳の診察室があって、その右裏に薬品庫がありました。診察室の先に今でいう居間、囲炉裏を真ん中にした部屋があって、そこには縁側があって裏庭に面してました。その右側の土間に台所、縁続きの左にも部屋がありました。裏庭には鶏が放し飼いになっていて、鶏小屋に時々、卵を取りに行きました。

診察室は他の部屋で囲むように仕切られていて、裏庭とは反対側にも部屋が三部屋、そちらには診察室からの廊下が縁代わりに続き、外には造られた庭がありました。祖父が設計した庭だったと聞いてます。

一番奥の部屋には北海道で為留められた熊が頭と手足がついた毛皮状態で敷物になっていて、部屋の中央に敷かれてました。なぜか私はその敷物の熊の首に抱きついて寝転ぶのが好きでした。熊の毛皮は柔らかくてひんやりして気持ちよかったのです。目はガラスの玉がはめ込んでありました。祖父が亡くなった後、私はそれをもらってきて、私の部屋に敷いていました。熊は成人した私よりも大きく、包み込んでくれるような気がしたものです。

飛騨地方の山の中腹にある村、家の外の小さな小川には山からの水が絶えず勢いよく流れていました。庭はその水を引き込み、上の庭は幾つかの木々が植わり石を重ねて滝のようなイメージで水が落ちるように造ってありました。その落差は階段にして三段?1mほどだったと思う。下の庭は平坦で静かな雰囲気でした。その場所の木々は存在を主張しないように間隔をあけてありました。そういえば灯籠がありました。私は下の庭が好きでした。落ちてきた水は小さな川の流れになり、外の小川に合流して出ていってました。


(写真は祖父の庭からの発想でちいさな流れがほしくて造ってもらったもので祖父の庭とは全く違います)

祖父が亡くなった後、その庭は下呂温泉の観光施設に移築されたのですが当時は行って見ることもなく、後年、寄ってみましたが、何の面影もなかったです。

熊の敷物のある部屋の前の廊下から取り外しのできる階段があり、三段降りたところに左に庭、右に蔵がありました。蔵の中に入るとひんやりとし、カビくさいというか蔵独特のにおいが感覚として未だに残ってます。蔵の前になる下の庭には飛び石があって、それを辿ると離れがありました。その場所に建つ離れはなんだったのか?記憶が定かではないのですが、祖父の書斎だったように思います。祖父が庭を見ながら本を読んだりする部屋。本が重ねて載せられた和机がありました。

今、思うと、その部屋からの庭の景観は遠くに山と滝、そして平坦な林を流れる小川。祖父の自然観だったような気がします。じっくりと離れに座って見れば良かったです。

あの頃は私はまだ子どもで、祖父は長い髭をいつも大事そうに撫でている威厳ある家長だったから、普通に話しかけられなかったです。食事は囲炉裏を囲んで食べました。時にお膳で。。祖父はいつも同じ場所に座り微動だにしなかった。姿勢が良く背筋がピンと伸びてました。

祖母や母がいろいろ話してくれたことがそのまま祖父の記憶に重ねられていて、今では誰から聞いたのかわからないです。生まれた実家が倒産して奉公に出たこと。その奉公先で気に入られて医者の道に進ませてもらったこと。祖母とは祖父の友人が妹をと紹介してくれて結婚したこと。北海道の白老に住んだことがあること。その時にもらった熊の敷物だということ。昭和の始め、当時としては新しい価値観で。。ふたりの娘を医者にしたこと。などなど。。でも祖父の声が思い出せないのです。

作日、ふと思ったのです。祖父とじっくりと話してみたい。
どんな話題が出て来るのだろうと。
私の心の奥底に祖父の思い出はしっかりと焼き付いている。あの頃、祖父はどんな価値観をもって、自分の家造りをしたのか、聞いてみたい。その祖父の家は元々の家と診療所を長男夫婦に譲って、そこから峠をひとつ越えた村に建てた家だったから、なおさら今の私には興味があるのです。

今、祖父の家はもうありません。訪れてもその場所すらわからないのです。
思い出と想像をかきたてる家として私の心の中にあるのです。
そして私の和室のイメージの原点は意外とその離れにあるのではと思うのです。

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