移動の日
朝、和田山を一番の特急に乗って、、、浜松に戻ってきた。
8時8分、プラットフォームから見えるのは和田山駅のシンボル、機関庫。
今朝は靄が辺りを覆っていた。
8時47分、車窓からの景色も遠くはほとんど見えない。
こんな日は晴天になるのだが。9時2分、まだまだ。。
9時4分、日の光が感じられたとたんに。
うそのような晴天!に変わった。
京都で用事を済ませ、一時間ごとに出るいつものひかり号に乗る。
浜松まで1時間と10分。
今日は浜松駅から、浜松市の循環まちバス「く・る・る」に乗った。
そんな移動をこの5年間、行ったり来たり。。
その5年間で変化したことが多い。健康面も交友関係も。プラスもあればマイナスもある。
なによりも大学進学で我が家を出て行った息子達が15年以上経って、家庭を持ち子どもが生まれ、こちらは孫が、、お互いに家族間の交流が頻繁になった。夫婦だけで暮らした日々よりも自分の時間は拘束されるが喜怒哀楽全てが実に後味の良い気分になるのを発見した。核家族だとか、個々の自立だとか、そういう時期を通り過ぎて、今はスープの冷めない距離での大家族って、良いじゃん!って思うようになった。
春が近づいて
窓の外は春めいてきている。全体に色が淡くなって。。。
今日も新幹線に乗っている。新大阪から神戸に。用事を済ませたら、大阪経由で但馬に。帰りは京都で用事を済ませて。。。と
浜松暮らしも二ヶ月を切った。浜松に越して5年にもなる。けど、じっくりと過ごすのではなく、いつも走り回っていたような気がする。。。
この窓からの景色も見ることができなくなる。二三日前、家族で、午後のお茶をしながら、ほんと!良い眺め!ほっとするねと。。。そうなの。私はこの場所から、毎朝、景色を眺めて、朝食をとり、なんとなく過ごしてしまうことが多かった。(この写真は夕方だけど。)
そう言えば、ある時期は山歩きをしてたっけ。
病気になって、参加できなくなったけど。
あの頃は楽しかった!いつかまた、山歩きができるようになりたいと思う。
さて、新幹線で西に向かう時、気になるのが伊吹山。で、つい撮ってしまう。
この山にも登ってみたい。
下は今日の伊吹山。この前とはすこし山の雪も消え、里には少しだけ雪が。。
いつもは京都で降りるのだが、今日は新大阪。これからは神戸や大阪がまた近くなるし・・
新しい生活圏で楽しくいきたい。
この前、神戸元町も大きく変わったと思ったけど、大阪駅周辺もずいぶん変化している。京都と浜松、東京という生活だったので。。。びっくり!ウロウロ。
関西は元気なのかな?これからちょっと楽しみ。
今は福知山線。この景色はあまり変わらないな。
変わらないから良い!
テキスタイルレシピ
今年のグループ展は都美セレクションとなりました。
都美セレクション「テキスタイルレシピ』会期終了しました。多くの人に見ていただきました。来ていただいた方、ありがとうございました。
会場の様子です。
ひとりひとりの作品を紹介します。
まなごのりこ
古くなったウールの毛布を板締めという技法で染めました。もともとあった毛布の柄が新しいデザインとして生きてます。ぶたさんの物語があるらしいですが。。。聞かなくても心がほのぼのする暖かな雰囲気が漂ってます。
杉山映子
ドットでろうけつ染めをした布です。毎日、ドットを染めて続けて。
その上に同じくドットの布で手作りしたうさぎ500個が縫い付けてあります。そのうさぎも卯年元旦から毎日一個。凄いエネルギーを感じると感想を言われる方が多かったです。
佐藤修
引き染め。ぼんやりとしたボカシが生きてます。見る人の想像力を引き出してました。
ミカミイズミ
スクリーンプリントで染めたパンチパネルカーペットの上に小さなツールマンが1020個、のってます。
ツールマンの素材はそろばんの玉、どんぐり、指サック、コルクの栓、ネジなどで作られてます。小さなお子さんからお年を召した方までが床すれすれに座り込むようにじっくりと見ていかれました。みなさん楽しい思いをされたようです。
濱野十起子
キビソを経糸に緯糸をテグスで織りました。キビソ(生皮苧)というのは繭の外側から糸を紡ぐ時のはじめの一歩の糸です。繭がついていたり太かったり細かったりでかなり腰のある糸でした。緯糸のテグスも張りがあって、織り上がった時に普通の布とは違って、カーブを描くことができました。その布自体に任せた展示にしました。私自身、布のもつ力を感じた作品でした。
小さな綴れを色順に並べてみました。その赤です。
来ていただいた方はじっくりと見てくださる方が多く、質問されることも。。感想も述べられるのでとても参考になり、それらがこれからの作品作りに反映できそうな気がしてます。ありがとうございました。
2013年2月10日
初日の出
2013年元旦は中田島砂丘からの初日の出を拝むことにした。珍しく早起きして、初日の出バスで行く予定だったのだが、家族全員が揃った時はバスに間に合わなくなって、車で行くことにした。一時間前に出かけたので駐車場も待つことなく止めることができ、砂丘に向かう。
6時20分、まだ暗くて足元も見えないほど。東の空、太陽の光が赤い。
3分後、人が見えるようになる。
3分後、目を左後ろに。。。よく見てください。凧が揚がってます。小さな点ですが。。
ここは凧揚げ会場にも近いのです。
10分後、人々がどんどん増えていく。不思議なものでできるだけ太陽に近づいていきたいという心理なんだろう。東に東に行く人々。
5分後、我が家の家族は何を見ているのか??
寒くてじっとしていられない・・・
その時、空の色が変化したのです。
雲に太陽の光が当たって、反射しているのでしょうね。
5分後、美しく染まってます!
そして4分後、光の中央が黄色くなってきました。
3分後、中央の光が強くなって。。。
初日の出!6時56分。人々の歓声があがりました。
感動の瞬間にはこんなドラマがあるんですね。
半円になったオーラの真ん中をよく見てください。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
夢
今朝、妙な夢を見た。夢の中では自分の家だった。けど起きて思い出すと知らない場所だった。夢って不思議なものだけど。。。登場する人も知らない人だったり、知っていても全く夢の場につながらない人だったりする。
今朝の夢もそうだった。この10年に会った人とうんと昔からの人、全く知らない同士なのに夢の中ではお互いに知り合ってるように話をしている。
なにかな?私の深層心理のところが見えているのか?不安を感じてしまった。
つい最近、父の姉、伯母が他界した。それを知らなかった。ごくごく身内で見送ったらしい。伯母は私が子どもの頃から50年、父が亡くなった後も母と一緒に暮らしていた。我が家では母が父親役で伯母が母親役だった。ことある毎にまるで母のようにいろいろしてくれた。おふくろの味も伯母だった。子育てで大変な時期にも助けてくれた。
ちょうど今の私の年代だったのかなあ。伯母は隣に、母は後ろに。
伯母の料理はとても美味しかった。83才だったかな、もう料理を作るのはやめたい、母も仕事をやめると言い出して、それぞれが違う場所に移ってしまった。母も伯母も実の姉妹ではないけど、50年一緒に暮らすと最も近しい間柄になっていた。で、私の家にふたり一緒にやってきて長く逗留していた日々もあった。
ある年、伯母は足がむくんだ状態でやってきた。以来、心臓が悪くなり、我が家にも来れなくなり、なかなか会えなくなってしまった。母も伯母も90才を過ぎていた。ふたりは会えない時には電話で話していたがどちらも耳が遠くなって電話でも話すことができなくなり。。。そして、ふたりとも、車椅子の生活になってしまった。
伯母が亡くなったことを母に話すと、一瞬、驚きの表情をした。けど、そんなに悲しいようでもなく、受け入れている。同じ墓に入るつもりなのでまたそこで話をするらしい!母も生死の狭間を行ったり来たりして、今は元気だがいつどうなるか、わからない。だから受け止め方があっさりなんだ。。と書いていたら、弟からメールが入って、昨日、母が低血圧でお風呂で意識を失ったらしい。今は元気だとか。
伯母にはいつでも会えると思っていた。けどついつい後回しにしてしまった。見送れないと大きな悲しみは襲ってこないけど、じわりじわりと思い出す。その度に別れの寂しさを感じる。
夢には伯母は出てこなかったけど、なぜか夢から覚めた時に思い出す。
幸せ感
歩くには無理だと曲がりくねった細い坂道をタクシーで宿に着いた時、辺りは真っ暗になっていた。美味しいとはとても言えない夕食をすませ、大浴場には行かず古いユニットバスに入る。この時期の京都は観光シーズンで11月に入ってから宿を取るのは難しい。ちょっと不便だけど、まあ良いかと予約した宿、今時、めずらしくテレビもない部屋だった。次の作品のために草稿を描くつもりだったけど、暖房を入れて暖かくしたら睡魔に襲われてしまった。
早く寝たせいで5時半に目覚めてしまった。外はまだ暗い。うとうとしているうちに徐々に明るくなってきた。と。。
あれー!これは!?と窓の外に現われた光景にびっくり!窓を開けて、身を乗り出す。
思いがけない光景だった。急いで着替えて、フロントに行く。
この景色がよく見える場所に行きたいのだけど、どう行くのが良いの?と訊ねると
三階の非常口から行くのが良いでしょうと。
その非常口を開けるとまたまた予期しない光景が待ってました。
これって能舞台ではないか。どういうことなんだろう?
この宿、どう見ても洋館なんだけど、妙なミスマッチに首を傾げながら進む。
このガラスの波打つような状態、かなり古い。。けど、能舞台が造られた後に入れたような気もする。
能舞台の向こうに美しい樹々が見えている。そのまま進む。
この能舞台の家屋のための門があり、そこから能舞台のある玄関までの通路に出た。
裏山を背にした空間に広がる樹々の美しさに息をのむ。
足元にも。。。
見上げて葉の色の重なりにうっとり!静かな時がながれていく。
もういちど庭に戻ると能舞台の庭に入る手前に下に向かう道がある。
進むと外待合の腰掛があり、その目線の先に茶室があった。
能舞台の庭もよく手入れしてあった。ここの庭もそうだ。使われているのだろう。
茶室の先を降りるとそこは私の部屋から見えた場所だった。二階になる。こちらの施設はどうみても洋館なのだ。
フロントに行き、このミスマッチについて訊ねた。
能舞台は秀吉の豊公三百年祭の時(明治時代)に建てられたものでそれが廻り回ってここに。個人所有だったけど、売りに出された時に地続きなので購入し、茶室も能舞台も使われているということだった。あのガラスも三百年祭以後に入れられたという。そういうことかと納得する。
せっかく早起きしたので周囲の散歩に出かけた。
曼殊院が近くて、その周囲は朝の散歩に来た人、カメラを担いでいる人が疎らにいるだけでまだ観光客がいない。
なかなかいい散歩道だった。
曼殊院の参道
曼殊院の前の神社から見えた景色
歩きながら、遠くを見れば、向こうの山が。。京都は山に囲まれているのだったと思う。
宿に帰って正面横から見るとまさに裏は山。そして洋館。
急に冷え込んだおかげで思いがけない美しさに浸れてとても幸せな朝だった。
まいにち
今日の空。
このところ、織り続けている。あたりまえのことなんだけど。。。
ずいぶん長い間、織りに集中できなかった。大げさに言えば、何かをもとめて、迷う日々とでもいうのでしょうか。
たまたまなんだけど、石内都さんの「ひろしま」という作品展がカナダのバンクーバーで開催され、それを追って一年間ほど、日本で生まれ育ったアメリカ人のドキュメンタリー監督が撮った映像が放映された。が、それを観たわけではなく、次の日、石内都、ドキュメンタリー監督リンダホークランド、田口ランディの対談を観たのです。惹き付けられるものがありました。
2005年のベネチアビエンナーレで石内都の作品を初めて観ました。お母さんの下着など。。下着から伝わる存在感があって、衝撃的でした。今でもその衝撃的な感覚を覚えてます。
早速、石内都の『ひろしま』という写真集と田口ランディという作家の本を買い求めました。
『ひろしま』はその日、戦争のさなかでも目一杯のオシャレをして出かけた人たちが着ていた服などが美しく撮られてます。
その服からその人の存在が伝わってくるのです。一瞬で消えてしまった人。。。他人事ではない現実。無情感。
田口ランディは自らの疑問に対して詳細に調査しながら切り込んでいく姿勢がいいのです。
彼女の対談本の中で目を引いたのが板橋興宗というお坊さんでした。
私が次に手にしたのは板橋興宗和尚の著書、いくつかでした。
救われるということがあるとすれば、私はこの方に救われました。
織ることが苦痛ではなくなりました。今までは苦痛でした。
それはよけいなことを考えるから、自分で苦痛を生んでいたのです。
織ることができるのだから、それは嬉しいことです。だから何もよけいなことは考えず、織れば良い!
ということで織りだすと、あらあら怠けていたおつりが一杯あるじゃない。。。
こうした方が良いとか、今度はこうしようとか、いろいろ面白くなってます。
ある方から精神科のクリニックの壁にかける織物がほしいと言われて、それならばと植物染料で染めた糸を使って可愛い作品を作ってみました。優しい色あいが患者さんを和ませられたら良いです。この下の写真です。(もっと柔らかい色調なんですが。。写真が。。)もう一枚との二枚組です。これらは私の手元を離れました。
今も織は進行中です。
西日本は雨ですね〜。こちらは風が強いですが雨は降らず。。。でも空は不安定です。
今の空!
家
この左の赤い土壁の門から右に一直線、ずっと塀が続く家は明治23年に建てられました。
こうして全景を見ることができたのはほんの二年もなかったように思います。
建てられて115年ほど、前に見える緑地の場所には本家と言われる大きな家がありました。
今現在、その緑地は地区の運動場になって周囲をフェンスで囲われてます。
この家のことをすこし紹介します。
ここが正面玄関です。もう少し近寄りましょう。
では玄関を入ってみましょうか。
入って後ろを振り返ると。。(自転車などを気にせずにしてくださいね。)玄関から光が入ってます。
あの木戸をくぐって入ってきました。
この位置から、少し上を見上げると中二階、二階、三階と。。。
もう少し上には大きな梁が幾重にも。
この土間はかなり広いです。
そのままくるりと廻ってみましょう。
私は初めて入った時に、このとんでもなく高くて大きな空間に驚いてしまいました。
この家がこんな空間をもっているなんて、中に入らないかぎり、想像できないです。
ただしけむり抜きの穴が空いていて、外気が入ってくきますから、冬は寒くてコートがいります。
最初の全景を見るとなるほどと大きくて当然だと思うのです。
こうして後ろに引いてみて初めて大きさを確認しました。
明治の人の家を建てる技術は凄いですね。
祖父の家
私たちが32年前に建てた家を二世帯に建て替えることにしました。
一部屋だけが和室になります。椅子とテーブルの生活に慣れてしまった現在の暮らし。
けど、私は障子、襖、畳、床の間がある部屋があって私の家が成立すると思ってます。
遠い昔、祖父の家に夏休みになると行ってました。今でも家の様子が目に残っているのです。玄関に入ったとたんに漂う薬の匂い、畳の診察室があって、その右裏に薬品庫がありました。診察室の先に今でいう居間、囲炉裏を真ん中にした部屋があって、そこには縁側があって裏庭に面してました。その右側の土間に台所、縁続きの左にも部屋がありました。裏庭には鶏が放し飼いになっていて、鶏小屋に時々、卵を取りに行きました。
診察室は他の部屋で囲むように仕切られていて、裏庭とは反対側にも部屋が三部屋、そちらには診察室からの廊下が縁代わりに続き、外には造られた庭がありました。祖父が設計した庭だったと聞いてます。
一番奥の部屋には北海道で為留められた熊が頭と手足がついた毛皮状態で敷物になっていて、部屋の中央に敷かれてました。なぜか私はその敷物の熊の首に抱きついて寝転ぶのが好きでした。熊の毛皮は柔らかくてひんやりして気持ちよかったのです。目はガラスの玉がはめ込んでありました。祖父が亡くなった後、私はそれをもらってきて、私の部屋に敷いていました。熊は成人した私よりも大きく、包み込んでくれるような気がしたものです。
飛騨地方の山の中腹にある村、家の外の小さな小川には山からの水が絶えず勢いよく流れていました。庭はその水を引き込み、上の庭は幾つかの木々が植わり石を重ねて滝のようなイメージで水が落ちるように造ってありました。その落差は階段にして三段?1mほどだったと思う。下の庭は平坦で静かな雰囲気でした。その場所の木々は存在を主張しないように間隔をあけてありました。そういえば灯籠がありました。私は下の庭が好きでした。落ちてきた水は小さな川の流れになり、外の小川に合流して出ていってました。
(写真は祖父の庭からの発想でちいさな流れがほしくて造ってもらったもので祖父の庭とは全く違います)
祖父が亡くなった後、その庭は下呂温泉の観光施設に移築されたのですが当時は行って見ることもなく、後年、寄ってみましたが、何の面影もなかったです。
熊の敷物のある部屋の前の廊下から取り外しのできる階段があり、三段降りたところに左に庭、右に蔵がありました。蔵の中に入るとひんやりとし、カビくさいというか蔵独特のにおいが感覚として未だに残ってます。蔵の前になる下の庭には飛び石があって、それを辿ると離れがありました。その場所に建つ離れはなんだったのか?記憶が定かではないのですが、祖父の書斎だったように思います。祖父が庭を見ながら本を読んだりする部屋。本が重ねて載せられた和机がありました。
今、思うと、その部屋からの庭の景観は遠くに山と滝、そして平坦な林を流れる小川。祖父の自然観だったような気がします。じっくりと離れに座って見れば良かったです。
あの頃は私はまだ子どもで、祖父は長い髭をいつも大事そうに撫でている威厳ある家長だったから、普通に話しかけられなかったです。食事は囲炉裏を囲んで食べました。時にお膳で。。祖父はいつも同じ場所に座り微動だにしなかった。姿勢が良く背筋がピンと伸びてました。
祖母や母がいろいろ話してくれたことがそのまま祖父の記憶に重ねられていて、今では誰から聞いたのかわからないです。生まれた実家が倒産して奉公に出たこと。その奉公先で気に入られて医者の道に進ませてもらったこと。祖母とは祖父の友人が妹をと紹介してくれて結婚したこと。北海道の白老に住んだことがあること。その時にもらった熊の敷物だということ。昭和の始め、当時としては新しい価値観で。。ふたりの娘を医者にしたこと。などなど。。でも祖父の声が思い出せないのです。
作日、ふと思ったのです。祖父とじっくりと話してみたい。
どんな話題が出て来るのだろうと。
私の心の奥底に祖父の思い出はしっかりと焼き付いている。あの頃、祖父はどんな価値観をもって、自分の家造りをしたのか、聞いてみたい。その祖父の家は元々の家と診療所を長男夫婦に譲って、そこから峠をひとつ越えた村に建てた家だったから、なおさら今の私には興味があるのです。
今、祖父の家はもうありません。訪れてもその場所すらわからないのです。
思い出と想像をかきたてる家として私の心の中にあるのです。
そして私の和室のイメージの原点は意外とその離れにあるのではと思うのです。
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