Monthly Archives: 3月 2021

黄砂の中で

 眠くなるような空になっていた月曜日、夕方になってしまったけど、散歩に出かけた。いつもと違って川には水鳥が少ないように思えたのだけど、よく見ると既に石のように丸くなっている。早いお休みタイムですね。黄砂が早めているのかな?

 ここは桜街道。今日はソメイヨシノは満開!やたら車が多い。

 この橋を横切ろうとした時、橋の真下に赤とブルーが目に止まった。おやおや、なんと美しい色なんだらう。

 久々にみるキジの姿に来て良かった!と買ったばかりで慣れないデジタルスチルカメラで追っかける。このSONY DSC-WX500は望遠は30倍ズームなので、10m下のものが上の写真のように撮ることができる。

 今まではニコンのデジタルカメラで200ミリのレンズで撮っていたのだが、ここまでは寄れない。鳥を知りたいとその姿を双眼鏡では確認することができても、なかなか鳥の名前など、本を持って行っても特徴を掴むことができなくて。それに重いのでね〜

 が、ファインダー付きがあったのに液晶画面だけにしてしまって、陽がさしている場所では液晶が真っ暗になってしまうという難点があった。試行錯誤してたら、友人にその対応を教えてもらって、ひとまず落着!

 さて、これが橋から上流を見た景色です。キジのいる場所は真ん中手前の草原です。そして川の中にある中洲は鳥たちのねぐらのようです。

 橋の真下をヒドリガモが上流に向かって泳いでました。彼らは中洲に向かってます。

 カルガモでしょうか、彼らもここをねぐらにしているでしょう。橋を渡った道から見るとやはりそうですね。下はカルガモとヒドリガモかな?

 私は橋を渡ってすぐの左に折れる道を通ってます。次の橋まではこんな風な桜の道です。右手には民家が続いてます。鳥たちの声が聞こえるエリアですが、犬の大きなゲージがあって、彼らが吠えるのが難点です。↓

 川向こうの土手も桜道、川の中ではマガモがエサを求めて潜っていました。(ピントが全く合ってない。慣れるまではこんな状態・・(^^;;)

 さて、次の橋を渡る時に見えた上流の桜も見事ですね。↓

 私は橋を渡ってすぐを左に。さっき見えていた桜道に入る。ここも写真の道の右手は途中まで民家です。

 この時は大型の乗用車が明らかに桜を見るために、こちらに向かって走ってきた。歩くようにゆっくりと・・・で、しばらく待つしかなかった。健康そうな50代頃の女性がひとり乗っていた。

  最初の橋に向かって、川と桜を見ながら歩く。

桜道

 桜の時期になって、堤防沿いの桜道もピンクに染まってます。

 桜が咲き始めた頃から、晴れの日には散歩に出かけています。咲き初めの頃はこんなに初々しかったです。

 さて、桜が咲き始めると、いつもは一時間に1,2台通る車が桜を見物するためにかなり増えるから、歩いていると後ろに車がいることが多い。今の車は静かに近づくので気配を感じた時には真後ろにいる。

 ケアハウスのワゴンカーが3台、後ろにいた時にはちょっと驚いた。マイカーの人たちも車を停めて歩いたらと思う。駐車できる場所はたくさんあるのですから。以前、同じ場所で車椅子を押しながら、桜を楽しんでいる人たちがいました。

 歩くと桜だけでなく、いろいろと発見があります。外の空気を吸うと心地よくなりますよ!

 こんな光景、アオサギが田んぼの中にいて逃げません。トラクターが耕す後に出てくる虫を食べてます。カラスも・・じっくり観察すると面白いです。 

 どんどん足元の花が増えていきます。ムスカリとオドリコソウ。

 枝垂れ桜に群がる小鳥たち。スズメ?ちょっと小ぶりな・・・

 春になって、たくさんいた水鳥が北に渡っていって少なくなりました。マガモがいる。オオバンやカワアイサもいました。

 桜道を走っていく車、時にスピードを落とさない。そんなに急いでどこに行くの?

 土曜日、友人と桜見物をしました。歩いた歩数は12000歩、さすがに足の指が悲鳴を上げました。

織るという作業

 織り終わった!で、次は何を試作するか、考え中!!

 日本や海外の織りに関する本がかなりあるので内容を確認するが、なかなか私が織りたいと思うのが見つからない。とにかくピーター・コリンウッドの著書を読んでみることにしようと・・・

 なにしろ英語なのでなかなか捗らないのだが、昔、友人が翻訳して送ってくれた部分については読めるわけで、ただしバラバラになってて、ページがわからない。それらを順番に直すことにして、やっと読むことができた。

 織りに関しての細かい作業の隅々まで書かれてあって、こんな親切な本があったのかと感動した。実に細かい。当然、売れるものを作るのだから、厳しいけど、妥協がなくて良い!

 翻訳できてないところから、英語を読んでいかないといけないけど、そこまでにいわゆる織り用語が解るようになっているので、たぶん読みやすくなると思う。

 さて、織りの糸を保管している部屋で見つけた既に整経が終わって、絣の括りを終え、染めた束を見つけた。が、何を織ろうとしていたのか?私自身がわかっていない。というか、たぶん、2013年で停止したまま8年の間に当時の思考回路は消えてしまったようだ。

 経糸が表に出てくる何かを作ろうとしていたことはわかるけど・・・
ここはなんとか今につなげて織ってみようと思っている。ただし、これは大きな織り機で織るサイズなので家で織ることは出来ない。

 向こうの織りの部屋を片付ける必要がある。もう少し後かなあ?

今日は晴れ、時々曇り

 タイトル通りの天気の話をするのではなく、今、思いついた話をするつもりです。(今日はデスマスで・・・)

 最近、この家の小さな庭では、雪の重みで平たくなったまま、立ち上げれないシュンランの葉、散り落ちた枯葉、ずっと片付けないままに放置したウッドデッキの下部など。そろそろ庭仕事のシーズンだと思って、そこそこ片付けました。

 庭仕事という言葉、良いですね〜

 この頃、庭師さんが適当?!なので頼れないなと思ってます。私がこの家に居ない日々が多くて、十分な手入れできなかったので仕方がないのですが。。。雪用にかけられたブルーベリーの綱を外しました。自由に葉を広げられて良かった!!今年はどれだけ実をつけるのだろう?

 いくつかあったシュンランは2本になってしまいました。他にもいろんな花があったけど、今はずいぶん寂しくなってしまいました。この家が出来て8年、私はやっとこの家で一年以上、住み続けることが出来ました。昨年の3月10日から。新型コロナウイルスが私をこの家に帰してくれました。

 そんなわけで、じっくりと腰を下ろして、今まで出来なかったことを少しづつしてます。山のような私と家族の歴史のあれこれ、その産物をどう片付けていくか、大きな課題です。

 数えたことはないですが何千冊かある本、漫画を除いて、全て私の本、これをなんとかしないといけないです。と言いながら、日々、過ぎていくのですが・・・段ボールをいくつか用意して、少しづつ減らしています。一応、進行中です。

 織り機、整経機、染め用の釜、その他、数々の道具も嫁入り先を探す必要があります。染めた糸、これから染める糸、そしてそれらを織ることも今後の私のライフワークです。それは徐々に確実に進めてます。

試し織の結果、やっと仕組みを理解、これは織りやすい!!

 そんなこんなで私の自粛生活はそこそこに充実してます。後期高齢者と言われる年齢になって、これからの日々は死に向かっていくのか、なんて考えることは全くないです。

 そんなことは私の意思でどうこうできるものではないから、とにかく生きてる限り、落ちていく思考力と筋力を常に鍛えて、目の前にある課題をこなしていくことだと思う日々です。

 そんないつ果てるともない課題があって良かったです。

 さっ!今日も!!(なんて・・ぼうっとしてる日もあります)

 

この頃は

 毎日、家の中で過ごしている日々が続いている。最近、織を再開したことが外に出ないで過ごす理由だ。2013年に買ったカナダ製の織り機があって、使わないままになっていた。大きさが家で織るのにちょうど良い。他の織り機に比べると高さが低くいので、家の中で大きく目立たない。

 けど、最後の組み立てをしながら、どう織るのか?と疑問だらけだった。説明書が英語なのでなんとなく理解している状況で、今も完全に解っているとは言えない。

 綜絖のワイヤーヘルドの穴が1cm近い。これは何か太めの物を織るつもりだったのか?と織り機を頼んだ人に連絡すると、何を織るのもそのワイヤーヘルドを使うという。えー!そうなんだ!!

 とにかく今までの常識を越える織り機なのだ。でもウロウロしながら、とにかく織り始めているが、どうもよく解っていない。けど、織れている。

 ずいぶん前から、こうして織っていない。徐々に、忘れることが増える年頃なので、今一度、原点に戻って、学び直しが必要だと思うこの頃だ。

新しいMacBook Air

 「故郷という最前線」から、新しいノートパソコンで書いてます。♬(^^)/

 以前のはMid 2011と書いてあるのでかなり昔に買ったものです。今でも使えるのだが、このところ立ち上がらないとか、切ることができないとか、トラブルことが多くなったので、買い換えることにしました。

 手前のが新しいMacBook Air!

 蓋を開けるとこの状態に立ち上がってしまう。

 昨日から新しい方を使い始めている。ちゃんと使い方をまだ見てないのだけど、このブログを書くのも今までとは違うことを体験している。画像を貼る時、記号だけではなくその画像が表示されるので、間違いがない。写真を開く時、今までと違うので、試行錯誤してしまったが、タッチパネルではないけど、タッチトラックバットの上を二本の指を開けたり閉じたりするだけで良い!叩いていた癖がつい出てしまう・・・

 今のところ、ブログを書いただけですが、きちんと知って、上手く使っていきたいと思っています。

 

ふるさとという最前線

 この頃、山崎亮さんのYouTubeを見ることが多いです。そもそも彼を知ったのは2011年の東北大震災の後、東京芸術学舎での「ふるさとという最前線」という講義に参加した時でした。イタリア旅行などのスクーリング授業を受けた松井利夫先生が講師だったので久々にお会いできると参加しました。

 この講義は実に面白かった。私は当時、66歳、まだまだ若かった。参加者は東京在住の20~40代の人たちが多かった。震災後、今までの生活に対して、これで良いのか?と感じている人が多く、地方での生き方の模索を考えている人、今の暮らしの中で何を目指せば良いのかと悩んでいる状況の人たちが集まったのだと思う。人数は200人に近かったのではないかと思う。毎年、講義が続いて、10期まであったのかな?たぶん、400人は超える人たちが講義に参加したのだと思います。

 兵庫県仲間で何かしようと言いながら、結局、その後、私は日本にいない日々が続いて、何もできなく、その間に若い仲間たちは今、日本中で活躍してます。

 兵庫県の実家に帰るかどうか悩んでいたけど、東京で建築のリノベーションを始めた人、東京生まれで今は高知県で活躍してる人、こだわった八百屋さんから今は瀬戸内海でリゾート一軒家などを展開してる人、もともと香川大学の先生で今は教授、学生とともに活躍されてます。東北に移住して山形のリンゴ農家に嫁いだ人、今までの仕事をより充実された人などなど、私が一緒に議論した人たちのその後はとても前向きで実に興味深い展開の人たちばかりです。

 それを率いたのが山崎亮さんです。彼の講座は自分が抱える問題をより実行へ向かうように、「話す、聞く、考える、実際に現場で確かめる、人の動きの導線を時間をかけて記録する」などなど、そこに住む人々と話し合って生きた場を作っていく。それを進めることをコミュニケーションデザインと命名したのは彼です。

何冊かの本のうち興味深い一冊

 人が集まるのをデザインするって、何?ですが・・・それを生業にしている人なんです。”造られた後、誰も遊ばない公立の公園、これでいいのか?”から始まったデザインです。

 当時、私は山崎さんの著書を読んだのですが、実感として理解できないまま、年月が経ってしまいました。で、彼のYouTubeチャンネルで「民芸のプロデユーサー吉田璋也」についての話があり、璋也さんは私の父の従兄弟なので懐かしい名前に興味を引かれたので、その話を聞きました。続く民芸関係の話も興味深く、楽しく視聴するようになりました。

 以来、いくつかのYouTubeの話を聞いて、コミュニケーションデザインのことなど、やっと理解できるようになりました。そして彼の対談に登場する人々の実に面白い話、その方々の著書を読む楽しみも増えました。コロナ自粛で家にいることが多いこの頃、自分の中で広がる世界を楽しんでます。

 そうそう、昨年の12月には久々、友人と鳥取民藝美術館も訪れました。写真は吉田翔也の阿弥陀堂から湖山池の展望です。

山崎亮YouTubeチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCSSZ5Exk8hv7mDTuJKU2hbQ

父の車

 このところ、このノートパソコンの調子が良くなくて、アップできない日が続き、パソコンの中身を減らして、やっと書くことができます。

 今から60年ほど前の話です。昭和30年代に父が初めて買った車の写真が出てきました。ダットサン210型だと思います。この場所は医院の前の道かな?

 昭和30年代、まだまだ戦後の情景です。確かに道は舗装されていないので、岡田産婦人科があった場所なんだと思いますが、記憶に残ってはいません。

 横から見るダットサン210型 

 その後、日本車はどんどん増えていったように記憶してますが、父がその後、どんな車に乗っていたのか、よく覚えてませんが、昭和38年の頃、私は車の免許を取ろうと父の車をガレージから出した時に父が止まれと言ってるのに止まれず、車の横に付いていたモールがはがれて、ひどく怒られ、運転練習は先延ばしになりました。たぶんトヨペットの車だったと。

 父が嬉しそうにモデルさんと写ってます。この車はフォード・タウナス(ドイツで生産された)です。始めての外国車でした。下の写真には66という数字がたぶん1966年(昭和41年)に買ったのでしょう。

 父は昭和45年の1月に他界してます。まさかこの写真の4年後に・・・父がいなくなるなんて、父自身も思ってみなかっただろう。。。

 父が病気で入院した時に私は東京での仕事を休ませてもらって、私が父のそばに付き添うことになりました。そして、いよいよ車の免許を取ることになりました。当時、運転の練習は教習所内に造られたコースを借りて、教習所の車か自分の車で練習するというものでした。一緒に助手席に乗ってくれる人もいたように記憶してますが、今のようなシステムではなかったのです。

 そして運転免許を取得するには警察の運転免許試験場に行って、学科試験を受け、合格すると二回の実技試験が認められます。私は実家の岐阜県で受けました。実技試験は減点式でしたから、途中で「はい!ここまで」と言われたら、落ちたということです。

 学科試験の二度目を終えて、実地試験3回目、私はほとんど男性ばかり50名以上の試験場で確か2名の女性だったので、他の受験者が「頑張れよ!」と応援してくれました。合格した時はみんなに「お〜!3回目って!すごい!」と祝福され、ちょっといい気持ちになりました。(笑)

 昭和43年の夏でした。

 初めて家から運転して、父が入院していた名古屋大付属病院まで(約40㎞)運転した時の緊張感は今でも忘れないです。父も心配で居ても立っても居られなかったようです。タウナスだったのか?記憶になく、その日、病院に泊まり、朝、起きて車を見に行ったら、タイヤ4本とも盗られてました。

 いやいや、とんでもないことでした!!110に公衆電話から、かけるのが、なぜか119になってしまって・・・携帯なんてない時代、全てがアナログだった時代。めちゃめちゃ焦ったのを思い出します。

 そんなこんなでの私の車人生の始まりでした。

 あれから52年も過ぎたのですね〜