移動の日
朝、和田山を一番の特急に乗って、、、浜松に戻ってきた。
8時8分、プラットフォームから見えるのは和田山駅のシンボル、機関庫。
今朝は靄が辺りを覆っていた。
8時47分、車窓からの景色も遠くはほとんど見えない。
こんな日は晴天になるのだが。9時2分、まだまだ。。
9時4分、日の光が感じられたとたんに。
うそのような晴天!に変わった。
京都で用事を済ませ、一時間ごとに出るいつものひかり号に乗る。
浜松まで1時間と10分。
今日は浜松駅から、浜松市の循環まちバス「く・る・る」に乗った。
そんな移動をこの5年間、行ったり来たり。。
その5年間で変化したことが多い。健康面も交友関係も。プラスもあればマイナスもある。
なによりも大学進学で我が家を出て行った息子達が15年以上経って、家庭を持ち子どもが生まれ、こちらは孫が、、お互いに家族間の交流が頻繁になった。夫婦だけで暮らした日々よりも自分の時間は拘束されるが喜怒哀楽全てが実に後味の良い気分になるのを発見した。核家族だとか、個々の自立だとか、そういう時期を通り過ぎて、今はスープの冷めない距離での大家族って、良いじゃん!って思うようになった。
家
この左の赤い土壁の門から右に一直線、ずっと塀が続く家は明治23年に建てられました。
こうして全景を見ることができたのはほんの二年もなかったように思います。
建てられて115年ほど、前に見える緑地の場所には本家と言われる大きな家がありました。
今現在、その緑地は地区の運動場になって周囲をフェンスで囲われてます。
この家のことをすこし紹介します。
ここが正面玄関です。もう少し近寄りましょう。
では玄関を入ってみましょうか。
入って後ろを振り返ると。。(自転車などを気にせずにしてくださいね。)玄関から光が入ってます。
あの木戸をくぐって入ってきました。
この位置から、少し上を見上げると中二階、二階、三階と。。。
もう少し上には大きな梁が幾重にも。
この土間はかなり広いです。
そのままくるりと廻ってみましょう。
私は初めて入った時に、このとんでもなく高くて大きな空間に驚いてしまいました。
この家がこんな空間をもっているなんて、中に入らないかぎり、想像できないです。
ただしけむり抜きの穴が空いていて、外気が入ってくきますから、冬は寒くてコートがいります。
最初の全景を見るとなるほどと大きくて当然だと思うのです。
こうして後ろに引いてみて初めて大きさを確認しました。
明治の人の家を建てる技術は凄いですね。
山田風太郎という人
1990年に始まった「但馬学研究会」、基本的に毎月第4週の土曜日に例会をしてきています。但馬に関する、いろいろなことをその土地の人に聞いたり、見たり、味わったり、体験してます。
今月は「但馬が生んだ文壇の鬼才!〜 山田風太郎の世界〜」というテーマでした。参加しました。実は私、山田風太郎の本を読んだことがないのです。例会案内には「忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である」と書かれてあって、どんな人なのか、とても気になってました。
話してくださったのは地元関宮の出身で、風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走された作家・歌人でもある有本倶子さんです。
有本倶子さんが迎えてくださって、お話の前に旧関宮町の企画で制作された山田風太郎さんの紹介DVDが流されました。この映像は当時の町長が風太郎さんの自宅に伺って撮られたものだそうです。関宮を語る風太郎の言葉にふるさとへの思いが溢れていました。パーキンソン氏病にかかって身体が不自由、だがカメラを持ってやってきた郷里の人に語る、その映像からはベットからなんとか庭まで移動した状態とは思えない。その人柄がにじみ出ていました。
そのあと、館内を案内されながら、展示のひとつひとつを詳しく説明、熱く語らえる有本倶子さん、若かりし日の思い出の写真や愛用品、貴重な直筆原稿などが展示されてます。有本さんは風太郎の家系を調べ上げ、千石左京の重臣であること、それを風太郎自身は知らなかったことなど。詳しく語ってくださいました。
有本さんは『風眼抄』という随筆を読んで、子どもの頃のご自分の記憶と鮮明に重なり、涙が溢れるほどの感動を受けて以来、風太郎ファンになられたそうです。風太郎に「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と言わせるほどの熱意で、関宮町に記念館をつくることに奔走し、風太郎に関係のあるものを収集し、今は館の運営に尽力されています。そんなエネルギーがどこにあるのかと思うほど、可愛らしい方です。
風太郎は5才で父を、14才で自分を最も愛してくれた母を亡くし、大きな哀しみと失意の中で、勉強もせず、不良学生となる。20才に東京に出て以来、その後、一度も生家に帰らなかった。「魂の酸欠状態」であったと当時の自分を振り返っている。ふるさとに帰るとその苦しみに引き戻されることを危惧し躊躇したのではないか。最愛の人を失うということはそれほど大きな哀しみをもたらすのだと思わずにいられない。
不良学生だった頃につけた彼のネーミング(符号)が風!
ちなみに他の仲間は、雨と雷と霧だったとか。
子どもの頃から絵を描くことが得意で、不良生活でもそれは活躍した。それだけでなく文章を書くと面白く、懸賞小説で入選すること数回。不良生活などの経験が書かれ、小説を面白くさせているらしい。
医学部の本代を稼ぐため小説を書いたのだが、日本探偵作家クラブ賞を受賞するなど、小説家としてデビューし、次々とヒット作を生み、ついに小説家として大成していった。
それにしても、この自画像、実に上手い!です。
館内の説明の後、記念館を出て、風太郎の家、子供の頃遊んだ関神社、小学校と案内していただきました。
これが風太郎の家でした。
関神社、ここの裏の樹林を山と呼んでいたらしい。子どもの目には神社が山のように大きく見えたのでしょう。
小学校の校庭に建てられた碑には「風よ伝えよ 幼き日の歌」と書かれてある。
風太郎にとって、風とは何であったのか?
と質問をした。有本さんの解釈もあった。吹き抜ける風!のように生きて死んでいく。
風、それはきっと著書の中に残されているのだろうと思いながら、記念館をあとにした。 有本さんが感銘を受けたという随筆『風眼抄』を読んでみようと思いました。
※山田風太郎記念館 兵庫県養父市関宮605-1
桜の時期になりました
桜の花が但馬の南部でも咲き始めました。10日はまだ3部咲きだったのですが、暖かい天気だったので竹田の川沿いには花見の宴を開いているグループが見られました。11日は雨が激しく降って花見は無理でしたが、花は6分咲きでした。
このところ、久しぶりに播但道を走ってます。狭くて運転しにくい道路です。しばらく車生活をしていないせいか、それとも年齢のせいか、狭い道路を高速で運転するのがコワいと感じるようになりました。それでも生まれたばかりの孫見たさに出かけてます。
午前中は家の中の要るものと要らないものを選別する仕事にかかってます。この箱は何が入っているのかと開くと、20~30年前を思い出すものが次々と出てきて、片付けるよりもつい見入ってしまいます。これは捨ててしまって良いものか?と思い始めると手が止まってしまう。。。
午前中3時間、ひたすら作業するとお昼には疲れを感じるのです。昼食を作り仕事から帰ってくる息子を待って食事した後、午後は出かけることにしています。ので遅々として進まないのですが。。。
生まれたばかりの孫のいる病院の坂は桜が何本も並んでいて、今は満開です。孫はお釈迦様の誕生日で満月の日に生まれました。そして次の日、その桜は見頃でした。坂を上がりながら、前面に現れた桜に感動を覚えました。この景色をきっと忘れることはないでしょう。残念ながら、運転していて坂道のカーブがキツいので写真に撮れないです。
今回の片付けは本格的でかなり捨てないといけないのです。今日12日は一日かかりました。ひとまず最初の予定の部屋を空にしました。何にもなくなって、広い空間ができました。息子達がしばらく仮住まいする場所の家具と本の移動、使わないものの処理して、第一段階、終了です。明日から30余年間、住んでいる家の片付けで、第二段階に入ります。
今日は青い空が広がって、気分のよい日でした。でも疲れました。
さてさて近くに神社の桜でも見てこよう!
咲いてました。7分咲きかしら。夕方なのでちょっと暗いけど。神社は公園でもあって若者達がいましたがカメラを向けるのは勇気がいって遠慮しました。
これからどんどん咲いていきますね。桜はいつ見てもワクワクさせます。
そうそうイソヒヨドリが朗々と歌っています。4月の初めから、聴こえています。
以前よりも早いです。
医院の庭
あちこちで桜が開花して、先週末、浜松城では6分咲きだった。
ここ但馬の南部ではまだ花は咲いていない。それでも蕾が膨らんで樹々の周りがほんわりと紅くなっている。
うちの医院の庭にも春が訪れている。3年前にリニューアルした医院と庭ですが。
以前の庭の時からある蕗の薹はすっかり薹が立ってました。
すこし進むとアセビが咲く。古くからある植物だがうちの庭にあるというのが嬉しい。
こんなに紫色だったのかしら?
池に映る木々、そして椿。椿の赤はなぜか日本を感じる。
うちの庭は狭いところに木々が植わっているから、散策などはできない。狭い隙間を縫って入るしかないのだ。雑木林をイメージした。真ん中に小さな小川が流れている。
花をつけている木がいくつか。。。けど、名前がわからないのです。調べないと!
春の花は小さくて可憐だな。
(アップ後、教えていただきました。)
この木はヒサカキ、ツバキ科です。
アオキ、いつも見慣れた木ですが、花はユニークなんですね〜。ミズキ科です。
木々の下に目を移すと雑草にも花が。。。
アブラナ科のタネツケバナのようです。
タチツボスミレでした。
そしてこの花も。ランの一種かなあ?ではなくて、ショウジョウバカマでした。
イカリソウです。
四季の花が咲き、雑草もところどころにあって、いい感じになってきました。
この庭は医院の待合室からはこんな感じで見えてます。
医院らしくない、くつろげる場、今の院長の思いもあって、四季が感じられる庭が中から見られたら良いなと思い、庭を造りました。開業して3年目、やっと医院も庭も育ちはじめたかなと思います。
山越え
再来年の一月のグループ展に向けて、自分の展示場所もあらかた決まった。と言っても美術館の学芸員の方の意見を聞いたわけではないので確実ではないが。
どっちにしても作品は自分の表現でしかないわけで。。。情報収集しないと。
里山の変化が知りたくて、先日も但馬に帰った時に車で走りまわった。台風や雨で崩れた場所が多いのとトンネルや道路ができて山越えすることもなくなって、かっての山路は使われなくなっているところもある。
この山越え道、お葉つきイチョウを探していたのだが、あったのは「なんじゃもんじゃの木」だった。なんじゃもんじゃの木とは縁結びの木だとか。どれどれ見てみようと。
風化した神社の階段を上がる。
ありました。
しめ縄も張ってるし、この集落の人の手がかかってるのはわかる。下から覗くと山も手入れされているのだが。。どうもそれ以上、上がるのは勇気がいってやめてしまった。妖気が漂う!のだ。
振り返るとこんなに美しいんだけど。
階段を降りる時、近くの民家の犬に吠えられ、ニワトリに覗かれて。。
今の時代、こんな山奥にも暮らす人がいるのを不思議に思えない。ずっと昔から住み着いている人たちなんだろうと思う。
峠を過ぎて少し走り、また下に降りる手前の部落に人影がない。分校も閉鎖されて、校舎に描かれた太陽が昔を思い起こさせる。都会から田舎に移ってきた家族が居た家も朽ち果てて、牧場だった所も潰れていた。その道の下、覗くと一軒だけ車が止まっていた。炭焼きの家族の家だろうか?
道が下り始める。先ほどの登りに比べると視界が開けて、かなり下に家々が見える。こんな高いところだったのかと驚く。忘れているのだ。全く何度も来ても同じ感動になってしまうように思う。と、オートバイの音が後ろに。3台いる。どうぞ!と先に行ってもらう。彼らはカーブをきりながら、続く林中に消えて行った。
山路のカーブは好きだけど、久しぶりなのでゆっくりと。それにもう若くないんだから、注意して。。なんてひとり言を言いながら。もう一台、オートバイが接近、先にいってもらったけど、慣れないらしくて、あまり差が開かない。山路を降りたところに3台のオートバイが彼を待っていた。
それを横目に見て、先を急ぐ。
家に帰るかどうかの分岐点でまた次の山越えの道を選んでしまった。
全くつくづく山路が好きなんだ!わたし。
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