山田風太郎という人

1990年に始まった「但馬学研究会」、基本的に毎月第4週の土曜日に例会をしてきています。但馬に関する、いろいろなことをその土地の人に聞いたり、見たり、味わったり、体験してます。

今月は「但馬が生んだ文壇の鬼才!〜 山田風太郎の世界〜」というテーマでした。参加しました。実は私、山田風太郎の本を読んだことがないのです。例会案内には「忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である」と書かれてあって、どんな人なのか、とても気になってました。

話してくださったのは地元関宮の出身で、風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走された作家・歌人でもある有本倶子さんです。

有本倶子さんが迎えてくださって、お話の前に旧関宮町の企画で制作された山田風太郎さんの紹介DVDが流されました。この映像は当時の町長が風太郎さんの自宅に伺って撮られたものだそうです。関宮を語る風太郎の言葉にふるさとへの思いが溢れていました。パーキンソン氏病にかかって身体が不自由、だがカメラを持ってやってきた郷里の人に語る、その映像からはベットからなんとか庭まで移動した状態とは思えない。その人柄がにじみ出ていました。

そのあと、館内を案内されながら、展示のひとつひとつを詳しく説明、熱く語らえる有本倶子さん、若かりし日の思い出の写真や愛用品、貴重な直筆原稿などが展示されてます。有本さんは風太郎の家系を調べ上げ、千石左京の重臣であること、それを風太郎自身は知らなかったことなど。詳しく語ってくださいました。

有本さんは『風眼抄』という随筆を読んで、子どもの頃のご自分の記憶と鮮明に重なり、涙が溢れるほどの感動を受けて以来、風太郎ファンになられたそうです。風太郎に「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と言わせるほどの熱意で、関宮町に記念館をつくることに奔走し、風太郎に関係のあるものを収集し、今は館の運営に尽力されています。そんなエネルギーがどこにあるのかと思うほど、可愛らしい方です。

風太郎は5才で父を、14才で自分を最も愛してくれた母を亡くし、大きな哀しみと失意の中で、勉強もせず、不良学生となる。20才に東京に出て以来、その後、一度も生家に帰らなかった。「魂の酸欠状態」であったと当時の自分を振り返っている。ふるさとに帰るとその苦しみに引き戻されることを危惧し躊躇したのではないか。最愛の人を失うということはそれほど大きな哀しみをもたらすのだと思わずにいられない。

不良学生だった頃につけた彼のネーミング(符号)が風!
ちなみに他の仲間は、雨と雷と霧だったとか。

子どもの頃から絵を描くことが得意で、不良生活でもそれは活躍した。それだけでなく文章を書くと面白く、懸賞小説で入選すること数回。不良生活などの経験が書かれ、小説を面白くさせているらしい。

医学部の本代を稼ぐため小説を書いたのだが、日本探偵作家クラブ賞を受賞するなど、小説家としてデビューし、次々とヒット作を生み、ついに小説家として大成していった。

それにしても、この自画像、実に上手い!です。

 

館内の説明の後、記念館を出て、風太郎の家、子供の頃遊んだ関神社、小学校と案内していただきました。

これが風太郎の家でした。

関神社、ここの裏の樹林を山と呼んでいたらしい。子どもの目には神社が山のように大きく見えたのでしょう。

小学校の校庭に建てられた碑には「風よ伝えよ 幼き日の歌」と書かれてある。

風太郎にとって、風とは何であったのか?

と質問をした。有本さんの解釈もあった。吹き抜ける風!のように生きて死んでいく。

風、それはきっと著書の中に残されているのだろうと思いながら、記念館をあとにした。 有本さんが感銘を受けたという随筆『風眼抄』を読んでみようと思いました。

※山田風太郎記念館 兵庫県養父市関宮605-1

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