私たち

この左の赤い土壁の門から右に一直線、ずっと塀が続く家は明治23年に建てられました。
こうして全景を見ることができたのはほんの二年もなかったように思います。

建てられて115年ほど、前に見える緑地の場所には本家と言われる大きな家がありました。
今現在、その緑地は地区の運動場になって周囲をフェンスで囲われてます。

この家のことをすこし紹介します。
ここが正面玄関です。もう少し近寄りましょう。

では玄関を入ってみましょうか。

入って後ろを振り返ると。。(自転車などを気にせずにしてくださいね。)玄関から光が入ってます。
あの木戸をくぐって入ってきました。

この位置から、少し上を見上げると中二階、二階、三階と。。。

もう少し上には大きな梁が幾重にも。

この土間はかなり広いです。
そのままくるりと廻ってみましょう。

私は初めて入った時に、このとんでもなく高くて大きな空間に驚いてしまいました。
この家がこんな空間をもっているなんて、中に入らないかぎり、想像できないです。
ただしけむり抜きの穴が空いていて、外気が入ってくきますから、冬は寒くてコートがいります。

最初の全景を見るとなるほどと大きくて当然だと思うのです。
こうして後ろに引いてみて初めて大きさを確認しました。

明治の人の家を建てる技術は凄いですね。

権太

なかなか太そうな名前だと思う。そして本当に太かった!
彼が我が家にやってきたのは1996年6月だった。生後二ヶ月を過ぎていた。

家の中にいて、時にはお風呂に飛び込んで出られなくなって、キャンキャンと!

まあ、こんな姿が。。。

そうこうするうちに夏が来て、9月、少し大きくなったところで家からベランダに移動させると寂しがって吠えたっけ。首輪をしている。

それからしばらくして、彼の生家に訓練のために半年、寄宿した。時々、会いに行くことになった。行くと母犬と一緒に吠えるのなんのって。。。犬小屋はかじられて、どんどん形がなくなっていくし。。。本当に訓練の成果があるんかなあ?と。
加古川の河川敷を散歩しながら、犬の調教師さんから私も指導されたっけ。

残念ながら、その頃の写真が全くないのです。
ある日、雷が落ちて、パソコン内のデーターがなくなってしまったから。

調教を終えて帰ってきた権太は散歩中、常に私の左を歩くようになった。
それでも調教師さんのようには完璧にいかなかったが。
私よりも先に行こうとする時「あとへ!」と声をかけると必ず、私の左側に下がり並行する。
とまれ!前に!よし!と声をかけると従うのだ。それだけで感動してしまったっけ。

3年後、1999年の写真があった。この時期の散歩はかなりの距離を歩いていた。
駅裏の円山川沿いに3kほど上流にさかのぼるコースだった。
当時は周りに誰もいないと綱を離して駆けまわれるようにしていた。時にそれで逃げまわって困った。調教したのに飼い主が良くない。。。
まあ、ずいぶん太めに成長してますね。

ラブラドールは水が好き。暑かったせいもあるけど、水に入り、そのまま座り込んでしまうこともありました。泳ぐことも好きでした。

上流の公園では犬の散歩仲間がいて、いつも同じメンバーが集まり犬談義してました。権太は小さな犬に負けてましたが、そのうち権太が雌犬を襲うようになって時間をずらしました。

車にゲージを乗っけて行く時、時に逃げるので、わざと車を移動すると追っかけて来るのですが、橋で方向を変えるとどこに行ったか、わからなくなってパニックになっていることがありました。ダメな犬だね〜って。

息子との散歩のあとで水を飲んでます。それにしても大きな舌ですね。

犬小屋スペースです。頑丈な扉、うしろの犬小屋の横の壁板は噛んでかなり壊れてます。
そうそう加古川の犬小屋は完全に形がなくなりました。
この小屋もそのうち右側の壁もなくなり、広い出入口になりました。

車にゲージを乗っけてましたから、かなり広範囲に出かけました。竹田城もその一つでした。時々、竹田駅の駐車場に止めて、勝賢寺の下から登るコースを行くことがありました。力の強い権太を先に行かせて、私はリードで引っ張られて楽でした。いい運動でした。私にも権太にも。

その道は台風で山崩れがおき、一時期、通行止めになってましたが、今はまた登れるようになってます。写真は今の状態です。

ある日、家から権太と散歩中にネコが走り抜け、それに権太が反応、私はリードを離さなかったためにアスファルトに顔をしこたまぶつけてしまいました。それ以来、散歩に出るのが怖くなってしまいました。もちろん、それでも散歩には行ってましたが。

2007年、10才過ぎて、まだ元気な頃の権太です。

この頃、我が家では事情があって、主人と私は浜松に暮らすことになりました。
私は和田山と浜松を行ったり来たりでした。
居ない時、権太は近所の人や医院のスタッフに面倒をみてもらいました。
そして彼もしばらく浜松に。
次に和田山に帰ってきたのは長男がクリニックを開業した2008年でした。
あちこち移動したストレスか、ずいぶん歳をとってしまいました。

2011年8月の写真です。権太15才、食欲があり、でも獣医さんに太り過ぎだと言われました。目は見えなくなり音も聴こえなく。。臭覚は働いてました。私が行くとすり寄って撫でてと頭を下げるのでした。

この冬を越してほしいと思ってました。なんとか越せたと思ったのですが。。

私は9日に和田山に帰り、翌3月10日、ドッグフードをあげるために小屋に行くと姿がなくて。いつもと空気が違いました。ごんちゃん!ごんちゃん!と声をかけながら。。何の反応もない。
権太は正面から見えない狭い場所に自分で毛布を敷いて横になり、静かに息を引き取ってました。冷たく固くなった権太に呆然としました。16才にもうすぐでした。

3月11日、近くの斎場で荼毘に付し、お骨をもらってきました。そしてこの一年、散歩もできないほど、弱っていたので、大好きだった散歩道三カ所を見せてあげたくて、一緒にまわりました。ここはあの1999年の写真の場所です。あの頃とはずいぶん違ってましたが、それでも懐かしい場でした。

そこで2時46分を迎えました。寒い日でした。

その日は私の部屋で一緒に過ごし、その次の日、彼の犬小屋があった場所に埋葬しました。

最期、独りで逝ったと思うと悲しくて悲しくて、泣いて暮らしておりました。多くの仲間に慰められて、やっと泣かずに暮らせるようになりました。こうして権太のことをここに記録しておこうと書いてます。けど、やはり最期を思いだすと涙が止まりません。

私が居て見送ることができたのは救いでした。晩年をみてくれた長男夫婦に感謝してます。

元気な頃の権太の写真を見ながら、今頃は向こうで駆けているね!って。。。
権太と暮らした日々、忘れない。楽しい時を過ごせて良かった!
ありがとう!権太!

母と

ケアセンターの食堂で、お茶を飲みながら。
母が「ここにいるとね。みんながどんどん歳をとっていくのがわかるのよ」と言う。
それって、どういうことなんだろう?

少しすると他の方がケアの方と車椅子で、お人形と一緒に隣のテーブルに。人形は前の席に。
お茶とお菓子をいただいておられる。そして何度も立ち上がられて前に向かっておじぎをされている。

食堂のボードに誰かの書がいくつか張ってあった。その話題から、
母が「父は字が下手な人でね。ある時から、近くの書の先生に習い始めたの。そのうちにちゃんと見られる字になって、襖に書くまでになった」と。しばらく間をおいて「母はそういう習い事をすることがなかった」と。。。

「でも、おばあちゃんは縫い物をしていたよね」と私。
母が「洗い張りって、知ってる?」「知ってる」
「母は私たちの使った着物が汚れたり小さくなると、全部、ほどいて洗って伸子ばりで張って乾かして、もう一度、丈を直して縫い直していたのよ」

そうなんだ!そういう時代があったのだ。
私の母は93才、祖母のその話は80年前の話であろう。とても趣味の習い事なんて時代ではなかったような。今とはずいぶん違う。。。

祖父は田舎の医者だったけど、その昔、盆暮れにしか治療費を払ってもらえず、祖母が縫い物をして家計を支えたと聞いている。私が覚えている祖母はそういう時を超えて、のんびりとひなが一日、あれこれ縫い物をしていた。

母が「私が小さい頃のこと。私がいなくなったことがあったそうで、みんなであちこち探しても見つからず。。兄が塀の上にのって、私がひとりで帰ってくるのを見つけた。」と急に言う。「そうなの。覚えているの?」遠くを見つめるように「その頃の景色を覚えている。」と母は言う。描くことができれば、それは鮮明に描けそうな雰囲気が伝わってきた。

その後、最近のことを少し話題にする。
隣の方は相変わらず、立ち上がって、おじぎをされている。

と、母との会話が途切れて。。。

母が「お母さんは着物をほどいて、洗い張りをして。。。」あら、また元に戻った。
母は子どもの頃に戻っていっている。祖父と祖母の子どもだった頃に。

まるでそれを察したように、母が「どんどん子どもに近くなっていくのよね」って。
これが歳をとるってこと。なのかな。

ふたりで

この前の日曜日のこと、三才になる孫と電車に乗りに行きました。

最近、電車の名前を覚えて、電車の絵本を読んだり見たり、時には絵本をまねて、おもちゃの電車で再現したりするのを楽しむようになりました。でも少し攻撃的かな?脱線している。

これは切り替えが必要かもしれない。ということで本物に会いに行くことにしました。

お弁当を作って、二人でお出かけです。まずはバスに乗って。

次は東海道線に。窓からは電車や新幹線がすれ違います。

窓の外も飽きてきて、こんどは車掌さんの動きが気になります。でも小さな彼には車掌さんが何をしているのかは分からないのです。ドアの開閉もアナウンスも車掌さんとはつながらないのです。そういうことなんだと私の方が納得でした。

だんだんつまらなくなって、停まる度に降りようと言う。新幹線が停まる駅で降りて、新幹線のホームに行く。停車した新幹線、見つめる目が違う。。

名古屋駅。次は特急を見よう!「しなの」「セントラルライナー」キョロキョロ。

さーて、そろそろ名鉄のパノラマカーに乗って帰ろうか。昔は赤い車両7000系だったけど、今は素敵な車両2300系、けどミュージックホーンは同じなんだ。乗ってしばらく、疲れてダウン!じつは私もです。

やはり格好いいね。彼がずっとミュースカイと言っていたような・・・

それから東海道線で帰ってきました。

彼の背中はなんとなく満足感が。。少しお兄ちゃんになったかな。いい日だった。

家族と過ごして

久しぶりの日曜日、朝「今日は何か予定ある?」と息子に電話した。「あっ、ちょっと待ってね。後で連絡するから」と何か、ばたばたしているのが伝わってくる。

まっ、急ぐ話でもないので綴れを織ったり、家の中の雑用をして過ごす。お昼も済ませて、それにしてもと電話すると「今、公園にいるよ」「いただいたお菓子があるけど」「じゃあ、そちらに行くか」ということでやってきた。

息子と二人の孫、上が3歳になったばかりの男の子、下は1歳半の女の子、「おばあちゃん!」と玄関から、おもちゃのある居間に突進!あっという間に部屋の中は子供部屋と変わってしまった。

小さなこどもの本棚から彼が好んで出してくるのは、昔、息子たちが読んでいた古い本、トーマスシリーズ、意外と長い文章の本なので読み聞かせるのはまだまだだ。けど絵を見て簡単に話すことはできる。半年前に話したことを覚えていて、彼が説明してくれる。いつのまにかトーマスの仲間の電車の名前も全部、言えるようになっている。YouTubeなどで覚えたらしい。いつものことだけど、なんども同じ本を最初から読む(見る)のをリピートさせられた。

彼女は女の子なのにお兄ちゃんと同じが良くて、女の子らしいおもちゃに興味がない。彼の遊びに次々に侵入し、なぜか取り上げてしまう。そのたびにお兄ちゃんに倒されたりして痛い目に合うのだけど、けっして負けない。そしてとうとうお兄ちゃんが悲鳴をあげる。彼女の歯形が彼の手に。いつものことだけど。。

それぞれ別の遊びをすれば良いのに子どもが集まるとそういうもの。ほかの子の遊ぶものに興味をもつ。で、けんかになる。人間ってやはり人の間が好きなんだ。

『あーんあん』の本は大好き。彼女。いつのまにか「あーんあん」と大きな口をあけて一緒に声を出すようになっている。子どもの成長って、すごい!

彼らのママは論文の発表で午後から出かけて、息子が子守りをしていた。ので息子は疲れて一眠りしている。それでもオヌツを交換したり。。。上の子が生まれた時以来、いつも子どもと共にいることを幸せに思っている息子の姿を見てきた。母としてはとっても嬉しい。

ママが終わって迎えに行き、ママの誕生祝いをしようと外に食べにでかけた。

お店の人が気を利かして子連れでもゆったりできるところに席を取ってくれた。バイキングだったのでみんなで山のように皿を重ねてしまった。なんという家族か!!

その席での息子夫婦の会話。お互いに同じ職種。専門資格をとらないといけない世界なので来年は一年かけてなんとかクリアしようと言う。仲間の誰かの勉強方法、ネットを使った方法などなど情報交換に余念がない。子どもたちはその中でたくましく野方図に育つ。保育園でどちらもボス的な存在になりつつあるらしい。

そうそう、親子ともに頑張れ!
家族と過ごす時間はじつに楽しい。それに教えられることも多い。
孫のようにたくましく、息子たちのように目標をもって、今のようにひとりではなく人の間にいたいとつくづく思う。

母さんは

この3週間、腰痛で車を運転するのをできるだけ控えていると、なかなか母のところへ行けなくて。。。行けないまま、いつのまにか日が経ってしまった。悲しい顔をしているかなあって、気にしてましたが、オットどっこい!母はすっかり元気になったらしい。

ケアセンターがとても気に入ってずっとこのまま居ると決めたらしい。楽しく暮らしていると弟から電話があった。ふふっ、彼女の切り替えの早さを忘れていました。そうよ!断ち切りが早いというか、いつも見事だったっけ。

変わらんなあとほっとしました。

自分用のテレビが入り、好きな野球観戦ができれば、何も要らないんだろうと思う。そう言っているらしい。物にも人にも執着しない彼女らしい。まあまあ良かった。

親子なので似ていることもあるけど。。私の方が長く悩む。。。^^;

なんということ!

この二週間、腰痛とそれに伴って起きた大臀筋の激痛で薬の服用を余儀なくされ、以前から副作用があって合わない痛み止めの薬を飲み続けて、痛みがなんとか楽になったのですが、昨日、一ヶ月に一度の血液検査の結果、肝機能の値が病気の時に戻っていると先生に言われてしまいました。

痛み止めの薬、いつも顔が腫れるとか、気持ちが悪くなるとか、副作用が出ていたのですが、痛みに耐えられなくて、病院からの処方だからと飲んでました。

その薬はよく理解できてないですが、肝臓を通して痛みを軽減させるんだそうです。だいたい私は薬の副作用の多い身体で、他の薬でも急性肝炎を引き起こしたことがあります。

そうなると、これからは痛み止めは座薬しか使えないと薬剤師さんに言われました。けど、息子が調べてくれて、それもダメなんだそうです。

まあ今回の症状は薬をやめれば、値は下がるので良いのですが、これからは腰痛を起こさないようにするしかないです。パソコンに向かう姿勢とか、休まないでずっと座り続けることとか、意外とそんなところに腰を痛める要因もありそうです。

早寝早起きかなあ?できなさそうだけど。。。

検査結果ではあまり凹まないけど。激痛になるまで自分の身体を痛みつけてはいけないと反省中です。

捨てる話

この頃、家の中の整理をしている。兵庫県の但馬地方から浜松に移って、浜松にいることが長くなって3年、こちらでの役目も終わって、そろそろ但馬に帰ろうと思っています。

たまたま千代里さんの『捨てれば入る福ふくそうじ』と近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』を読み、そうか!掃除と捨てる作業はシンプル人生のはじまりかと。ときめきをポイントにする捨て方!でした。

が、まだまだ人生という道の先が続いている若いお二人とは少し違う。ある日、突然、その道の先が見え、限りある人生を実感した、その瞬間からの捨てる作業はもっと潔くないと。

長く生きたら、その分だけ、ものも増えます。けど、人生の最期は生まれた時と同じで何も持たずにこの世から消えていくわけです。それまでに自分のものは自分でお別れしないといけない。何も持たずに生まれてきたのだから、真っ白で良いと。

私の母は93歳になります。今は自室があるホームのケアセンターに居ます。自分の身の回りのことはできますが、夜中のトイレに行く時にぼおっとしていて、転んだりするので自室で一人で暮らすことはできないのです。けど、センターに居ると笑顔が暗い、時々、自分の部屋に帰ると別人のようにいい笑い顔になります。自分の居所って、過去に繋がる場であり、ほっとして存在を実感する場なんでしょうね。

良い笑顔でしょう。このままで居てほしいですが。。。母に内緒で公開!(後悔するかなあ?)

自分の家で家族が最期まで看取ってくれる人はそのまま幸せでしょう。けど、最期は病室だったり、施設だったりすることが普通なのかも。そんな時にボケてしまうと言いますね。

だからこそ自分のものや場に固執しないでお別れする必要があるとつくづく思います。捨てるということは心に残すことだと思ってます。その心に残したものも昇華させないと。。。真っ白になれたら、どこでも笑い顔でいられるように思うのです。

そんな終着点に向かって、捨てる作業してます。カチカチとこだわっているわけではなくて、楽しみながらですよ。なかなか捗らないけど。。。溜め込んでいたから。

それはけっして後ろ向きに生きることではなくて、どんどん前に進み、いろいろ吸収し人生を謳歌しながらです。ときめきながら、捨てていくんです!!

 

ぎっくり腰で

今日の浜松は快晴!

もう一週間も腰が痛くて、何もできない。
今日はすこし良くなったのでブログを進めようかと。

この一週間、何もしないで寝ていた。食事は簡単に作ったけど。食っちゃ寝で少し太ってきた。それだけが嬉しい結果である。

何にもしないって、ストレスにはならない。あれもこれもと手を出すクセが抑えられたのは私にとっては良いことなのだが。まったく、よく寝られるものだと感心しながら、寝るきゃないから。というよりも腰が痛いのに織りもできなければ、パソコンも打てない。

うーん|また痛くなった。このパソコンの姿勢が良くないのだろう。

ということで中断を余儀なく。。。

そして今日も暮れた。

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