ひさびさの東京
このところ家で過ごす日が少ない。たまたま興味があるイベントが続くせいもあって、あれこれと、まとめて走りまわっってしまう。先日も東京での面白いイベントがあり、行ってきた。今は東京に拠点がないので一晩泊まりとなる。イベントは夜だったので着くとすぐに東京都美術館に向かう。「ボッティチェリ展」を観る。予定ではもう一箇所、美術館に行きたかったのだが、じっくりと鑑賞しているとそんな時間はなかった。
海外で暮らす。。と言ってもほんの少しの経験だけど、信仰が暮らしの中にしっかりと根ずいているのを実感する。私の中にも神仏による自然崇拝みたいなものはあるが、それは信仰とは違うように思う。
ボッティチェリが描いた絵画、そこには聖書に書かれている神話の世界が展開されている。とすると聖書を知らない私たちはどこまでこれらを理解できるだろうという思いに駆られたのだが。今から500年以上前、大富豪メディチ家をパトロンとする画家だった彼は当時の知識人を納得させる高い精神性があったに違いない。絵画としての大きな力、装飾的な表現でありながら、閉ざされた空間ではなく窓の外の自然をさりげなく描き、透けた薄い布までも克明に描写し、その美しい服を纏う姿態、気高いマリア、ヴィーナスの様々な表情を描いている。聖書をどう読み解くのか知らない私には解らないものがあったとしても描かれたものから深い精神性が伝わってくる。ボッティチェリといえば、「ヴィーナスの誕生」や「春 」しか知らなかった。やはり1人の画家の作品のあれこれを観ることはその人の生きた時間を追うことになり、そこに個人としての画家の魂を感じ、心に深く刻まれるものがありました。
夜は「写真家・石川梵スライド&トークショウ」に参加した。自然界の報道写真家、宮崎学さんがゲストでした。学さんは15年前、但馬学研究会の10周年行事で講師として来ていただいた時に、目から鱗のお話を聴き、以来、ずっと追っかけをしているので、どんなトークになるのか興味津々で出かけて行きました。石川梵さんはFBで知りその活動に興味をもちました。どんな方なのか直接、話を聴きたかった。それに学さんがトークはきっと面白くなると言われていたので。
石川梵さんは祈りをテーマに、大自然の気というのでしょうか、それを捉える写真家。宮崎学さんは生き物が警戒していない、ありのままの姿をカメラで捉えながら、人間社会との関わりをクローズアップする写真家。お二人とも、この地球上の人間も含めての自然の摂理をカメラを通して発信している。実にいいトークショウでした。
次の朝、泊まったホテルから歩いて東京駅まで行った。半蔵門からお堀をくるりと回るコースでした。土曜日だったので次々とジョギングする人たちに追い越されていく。その数、100人はゆうに超えてました。マラソン大会に参加する人が増えているのを納得しました。今は参加は抽選なんですよね。
皇居のお堀には水鳥が悠々と泳いでいる。左に皇居、右に内堀通り車がひっきりなしに走る。が、国立劇場、最高裁判所、法務省などなど、ゆったりとした建物が並ぶ。足の踝を痛めているので無理がない程度の速度で歩く。東京駅まで50分の散歩だった。
東京駅に着くとそのままステーションギャラリーに行く。開館3分前だった。
「ジョルジョ・モランディ〜終わりなき変奏」
私は初めて観る画家の作品だった。生涯、同じ場所でひたすら静物を描き続けた画家ジョルジョ・モランディの作品はどこにでもある容器や布を対象に描いている。そこには装飾的なものはなく、できるだけ余分なものを省いてなおかつ存在する形や色の追求…なのだろうか?その生真面目さの中に、描くということ、表現するということの原点みたいなものがあって、興味深い。ついつい四角いとか丸いとか、どこがどう違ってそうなるの?って、観てしまう。線とか塊とか、色とか、まるで実験しているみたいな?とか。この黙々と描き続ける意味みたいなものは?とか…
パトロンが描いて欲しいものを描く時代の画家とは全く違う、描くということが自らの表現である画家の描くもの、ボッティチェリが描いた貴族の暮らしではなく、地味で何でもない容器に向かう画家の終わりなき変奏。この存在感はなんだろう?と思う。エッチングも面白い、どの作品も単純化しているだけに身近に感じてしまうけど、奥が深い。ついつい何?なに?という興味を持ち、そこに引きこまれてしまう時間を過ごした。
新幹線に乗る時間が迫っていて駆け足で観たのだけど、この展覧会は私自身を触発するものが確実にあった。
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