私たち

2014年

2014年が明けました。
今年もよろしくお願いします

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今年は母の喪中なので。。。年賀のご挨拶や年賀状もひかえました。
昨年は息子の家族と中田島砂丘に初日の出を見に行きました。
今年はたまたま泊まっているホテルの展望廻廊からの初日の出を見る機会がありました。

元旦からしっかりと食べています。この何年か、体調を崩して、食事制限したために痩せ気味でしたが。。
12月の検査では、ほとんど正常になったので無理のない程度に食べても良いかと。。。(^^;;

ニュージーランドの坂を上り下りして戻った筋肉。
年齢を戻すことはできないけど、また適度な運動をしながら、ポジティブに過ごす毎日になりました。

一昨年は伯母、昨年は母、そして、私の傍らに常にいた猫のリオが逝ってしまいました。
そのことは私の心に深い悲しみと悔恨の情をもたらしましたが。

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ニュージーランドでの生活は好奇心をくすぐるには充分な環境でした。
言葉の壁があって理解できないこともあったけど、英語のスクールでの様々な国の若い友人との語ら
いは楽しいものでした。

一緒に出かけた三週間の一度の外での学習、美術館、公園などなど。。やはり楽しい時間でした。
若かったら、挑戦したいことだらけでした。

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そして2013年春

春、医院の庭には花が咲き、小鳥が歌ってました。

水はこころに沁みる音を奏でて流れ、小さな池をつくってます。

2007年の12月、庭はあっても樹々が枯れていた場所はこんな風になりました。

いい雰囲気になってます!うんと昔からずっと存在していたような庭になりました。

新医院を開業したばかりの頃、続けていけるのか不安でしたけど、今はもう心配してません。
バトンタッチは終わってます。

私たちの医院を閉じてから6年、しばらくこの地を離れていましたがこの5月に戻ってきました。こうして記録しておくことで、すっきりと次のステップに歩むことができるように思います。

2008年7月

2007年12月、まさかまさかの展開で消化器内科の医師となっていた長男が開業することを決めました。で、今までの医院を縮小した形でのリニューアルをしました。

2008年7月、突貫工事でなんとか開業することができました。

すっかり違う空間になった新医院です。内科、消化器内科、肝臓専門です。

診察室 パソコンがあって電子カルテと最近の医療は大きく変化してます。

処置室です。

エコー、内視鏡室です。

全体に白っぽい病院のイメージをさけた設計になってます。人の気配が感じられるのは良いですね。

待合室から庭が見えるようにしました。雑木林のような庭によってほっと癒される空間をイメージしてました。
でも、暑い夏7月、木を植えるには適してなかったので、この時は何も樹が植わってませんでした。

去年の医院の庭の様子です。

医院の中が明るく、ひとの温もりを感じさせます。ほっとした日でした。

2007年11月

2007年11月末、私たちが27年間、働いてきた仕事場を閉じることになってしまいました。
今はもう存在してないその場のことを記録として、ここに残しておこうと思います。

正面玄関を入ると

待合室がありました。受付のカーテンが明るい。。。

カーテンの内側は事務と薬局でした。

ドアの向こうは診察室、廊下の先にはレントゲン室や手術室があり、階段を上がると病室でした。

ドアを開けると診察室と処置室(理学療法)に分かれてました。

レントゲン室。。。

どの場所もひと気がなく、時間がそこで止まってます。
まさかこんなに早く医院を閉じるとは思ってなく、もっと働くつもりでしたが。。。

そうそう処置室の窓からはこの奥の庭が見えました。

医院の整理で。。。すっかり荒れてましたが。

医院を閉じた11月の時点ではこの仕事場はこれからどうなるのだろうと思ってました。

猫と私

このこ、チンチラのリオ、16才になります。人間の歳だと80才くらいなのかな?おじいちゃんです。

若い時は俊敏で飛んでいる小さな虫でも飛び上がってキャッチしてましたが今は老齢なのでもう無理です。起き上がるとフラフラとしてバランスを崩すことも多々あって、足をすこし引きずりながら歩き始めます。それでも顔つきはしっかりしているので獣医さんにも16才には見えないと言われます。

犬は飼い主の様子を常に気にかけていて従順だけど、猫は勝手気ままだと言われてますね。犬は人につく、猫は家につくとも言われます。リオは家につくことができないほど生まれてから居る場所がコロコロ変わったせいか、家ではなく人についているように思います。

私のところには3才位から来て暮らすようになりました。この5年半、一緒に暮らせない日々もあり、ちょっとストレスを抱えてましたが、この半年ほど一緒に過ごすうちに落ち着きました。以来、私の側から離れません。私が一階に居ると一階に、二階に居ると二階に。私が移動すると必ずやってきます。そして私の近くで寝そべってます。

一階の定位置はここ!他の人が入ってくると警戒するので見えない場所、ソファーの裏側にいます。

二階にあがるとすぐ追っかけてきて、まずはまたすぐに降りるかもと。。様子をみるために階段の一番上に手をかけ、次の段に座ってます。

私が二階に落ち着くと定位置はここです。

こうして私を頼って安心して眠っているのを見ると。。

しばらく家を空けることが。。。
海外に連れて行くには歳をとり過ぎていて。。どうしたもんか。。

さっきから早く二階に行こう!もう寝ようよ!と
ミャアミャアうるさいリオ!!
こんなに長く一緒にいると猫語も日本語もお互いに理解できるのです。

蘇ったバイオリン

埃が積もって、でもケースに入って保管されたまま40年ほど、義父が使っていたバイオリンを初めて見ました。次男の嫁さんのEさんが見たい。できれば使いたいということで。このバイオリン、フタを開けると買った時の領収書が入っていたそうです。「昭和24年5月20日の日付、約16000円。京都市左京区熊野神社前上ル 徳田屋楽器店」という内容が書いてあるという。(当時の初任給の35倍が今の貨幣価値ということで計算すると56万円かな)

義父がこのバイオリンを手にする時の話が伝わっています。この楽器店に訪れた義父はこのバイオリンではなく、他のバイオリンが良いと思ったそうです。そのバイオリンはどう見てもストラディバリと読めるが値段が安くて、それを友人とコソコソと話して、いったん外に出て。。でも気になって、戻った時には値段が上がっていたそうです。お店の人がコソコソを聞きつけて気づいたのでしょう。それでも何とか工面すれば買えない値段ではなかったが、お金をかき集めないといけないので諦めて買ったのがこのバイオリンでした。という。ちょっと残念というか。。曰く因縁があるのです。

このバイオリン、チェコスロバキア製です。バイオリン職人の方に弦も切れ駒も魂柱も外れているけど調整できるかと持って行って聞きました。これは手作りではなく工業生産のものだがごく初期のラインにのって作られているので手作りに近いものがある。調整しないとわからないが良い音が出る可能性があるということでした。ニュージーランドに行く前の限られた時間だったので職人の方にはお願いできず。

そこで次男の家族が教えてもらっているバイオリンの先生がなんと調整してくださって、次男家族がニュージーランドに行く前に間に合ったのです。先生が「素晴らしい音ですよ」と弾かれて、その音の響きにびっくり!こんなに凄い音が出るなんて。。先生の話ではこの楽器はコンサート会場などで弾く楽器です。とにかく弾くことが一番です。それでますます良くなるでしょう!って。

そんなわけで孫達の可愛いバイオリンと一緒にニュージーランドに旅だって行きました。

さて、Eさんの話では「このバイオリンを手にしてから、今までの自分のバイオリンは全く使わなくなりました!」

お祖父ちゃんのバイオリン、蘇って良かったです!!
いつか孫達に継承されるのかも。
曾お祖父ちゃんのバイオリン!!って。

初日の出

2013年元旦は中田島砂丘からの初日の出を拝むことにした。珍しく早起きして、初日の出バスで行く予定だったのだが、家族全員が揃った時はバスに間に合わなくなって、車で行くことにした。一時間前に出かけたので駐車場も待つことなく止めることができ、砂丘に向かう。

6時20分、まだ暗くて足元も見えないほど。東の空、太陽の光が赤い。
3分後、人が見えるようになる。

3分後、目を左後ろに。。。よく見てください。凧が揚がってます。小さな点ですが。。
ここは凧揚げ会場にも近いのです。

10分後、人々がどんどん増えていく。不思議なものでできるだけ太陽に近づいていきたいという心理なんだろう。東に東に行く人々。

5分後、我が家の家族は何を見ているのか??
寒くてじっとしていられない・・・

その時、空の色が変化したのです。

雲に太陽の光が当たって、反射しているのでしょうね。
5分後、美しく染まってます!

そして4分後、光の中央が黄色くなってきました。

3分後、中央の光が強くなって。。。

初日の出!6時56分。人々の歓声があがりました。

感動の瞬間にはこんなドラマがあるんですね。
半円になったオーラの真ん中をよく見てください。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

この左の赤い土壁の門から右に一直線、ずっと塀が続く家は明治23年に建てられました。
こうして全景を見ることができたのはほんの二年もなかったように思います。

建てられて115年ほど、前に見える緑地の場所には本家と言われる大きな家がありました。
今現在、その緑地は地区の運動場になって周囲をフェンスで囲われてます。

この家のことをすこし紹介します。
ここが正面玄関です。もう少し近寄りましょう。

では玄関を入ってみましょうか。

入って後ろを振り返ると。。(自転車などを気にせずにしてくださいね。)玄関から光が入ってます。
あの木戸をくぐって入ってきました。

この位置から、少し上を見上げると中二階、二階、三階と。。。

もう少し上には大きな梁が幾重にも。

この土間はかなり広いです。
そのままくるりと廻ってみましょう。

私は初めて入った時に、このとんでもなく高くて大きな空間に驚いてしまいました。
この家がこんな空間をもっているなんて、中に入らないかぎり、想像できないです。
ただしけむり抜きの穴が空いていて、外気が入ってくきますから、冬は寒くてコートがいります。

最初の全景を見るとなるほどと大きくて当然だと思うのです。
こうして後ろに引いてみて初めて大きさを確認しました。

明治の人の家を建てる技術は凄いですね。

権太

なかなか太そうな名前だと思う。そして本当に太かった!
彼が我が家にやってきたのは1996年6月だった。生後二ヶ月を過ぎていた。

家の中にいて、時にはお風呂に飛び込んで出られなくなって、キャンキャンと!

まあ、こんな姿が。。。

そうこうするうちに夏が来て、9月、少し大きくなったところで家からベランダに移動させると寂しがって吠えたっけ。首輪をしている。

それからしばらくして、彼の生家に訓練のために半年、寄宿した。時々、会いに行くことになった。行くと母犬と一緒に吠えるのなんのって。。。犬小屋はかじられて、どんどん形がなくなっていくし。。。本当に訓練の成果があるんかなあ?と。
加古川の河川敷を散歩しながら、犬の調教師さんから私も指導されたっけ。

残念ながら、その頃の写真が全くないのです。
ある日、雷が落ちて、パソコン内のデーターがなくなってしまったから。

調教を終えて帰ってきた権太は散歩中、常に私の左を歩くようになった。
それでも調教師さんのようには完璧にいかなかったが。
私よりも先に行こうとする時「あとへ!」と声をかけると必ず、私の左側に下がり並行する。
とまれ!前に!よし!と声をかけると従うのだ。それだけで感動してしまったっけ。

3年後、1999年の写真があった。この時期の散歩はかなりの距離を歩いていた。
駅裏の円山川沿いに3kほど上流にさかのぼるコースだった。
当時は周りに誰もいないと綱を離して駆けまわれるようにしていた。時にそれで逃げまわって困った。調教したのに飼い主が良くない。。。
まあ、ずいぶん太めに成長してますね。

ラブラドールは水が好き。暑かったせいもあるけど、水に入り、そのまま座り込んでしまうこともありました。泳ぐことも好きでした。

上流の公園では犬の散歩仲間がいて、いつも同じメンバーが集まり犬談義してました。権太は小さな犬に負けてましたが、そのうち権太が雌犬を襲うようになって時間をずらしました。

車にゲージを乗っけて行く時、時に逃げるので、わざと車を移動すると追っかけて来るのですが、橋で方向を変えるとどこに行ったか、わからなくなってパニックになっていることがありました。ダメな犬だね〜って。

息子との散歩のあとで水を飲んでます。それにしても大きな舌ですね。

犬小屋スペースです。頑丈な扉、うしろの犬小屋の横の壁板は噛んでかなり壊れてます。
そうそう加古川の犬小屋は完全に形がなくなりました。
この小屋もそのうち右側の壁もなくなり、広い出入口になりました。

車にゲージを乗っけてましたから、かなり広範囲に出かけました。竹田城もその一つでした。時々、竹田駅の駐車場に止めて、勝賢寺の下から登るコースを行くことがありました。力の強い権太を先に行かせて、私はリードで引っ張られて楽でした。いい運動でした。私にも権太にも。

その道は台風で山崩れがおき、一時期、通行止めになってましたが、今はまた登れるようになってます。写真は今の状態です。

ある日、家から権太と散歩中にネコが走り抜け、それに権太が反応、私はリードを離さなかったためにアスファルトに顔をしこたまぶつけてしまいました。それ以来、散歩に出るのが怖くなってしまいました。もちろん、それでも散歩には行ってましたが。

2007年、10才過ぎて、まだ元気な頃の権太です。

この頃、我が家では事情があって、主人と私は浜松に暮らすことになりました。
私は和田山と浜松を行ったり来たりでした。
居ない時、権太は近所の人や医院のスタッフに面倒をみてもらいました。
そして彼もしばらく浜松に。
次に和田山に帰ってきたのは長男がクリニックを開業した2008年でした。
あちこち移動したストレスか、ずいぶん歳をとってしまいました。

2011年8月の写真です。権太15才、食欲があり、でも獣医さんに太り過ぎだと言われました。目は見えなくなり音も聴こえなく。。臭覚は働いてました。私が行くとすり寄って撫でてと頭を下げるのでした。

この冬を越してほしいと思ってました。なんとか越せたと思ったのですが。。

私は9日に和田山に帰り、翌3月10日、ドッグフードをあげるために小屋に行くと姿がなくて。いつもと空気が違いました。ごんちゃん!ごんちゃん!と声をかけながら。。何の反応もない。
権太は正面から見えない狭い場所に自分で毛布を敷いて横になり、静かに息を引き取ってました。冷たく固くなった権太に呆然としました。16才にもうすぐでした。

3月11日、近くの斎場で荼毘に付し、お骨をもらってきました。そしてこの一年、散歩もできないほど、弱っていたので、大好きだった散歩道三カ所を見せてあげたくて、一緒にまわりました。ここはあの1999年の写真の場所です。あの頃とはずいぶん違ってましたが、それでも懐かしい場でした。

そこで2時46分を迎えました。寒い日でした。

その日は私の部屋で一緒に過ごし、その次の日、彼の犬小屋があった場所に埋葬しました。

最期、独りで逝ったと思うと悲しくて悲しくて、泣いて暮らしておりました。多くの仲間に慰められて、やっと泣かずに暮らせるようになりました。こうして権太のことをここに記録しておこうと書いてます。けど、やはり最期を思いだすと涙が止まりません。

私が居て見送ることができたのは救いでした。晩年をみてくれた長男夫婦に感謝してます。

元気な頃の権太の写真を見ながら、今頃は向こうで駆けているね!って。。。
権太と暮らした日々、忘れない。楽しい時を過ごせて良かった!
ありがとう!権太!

母と

ケアセンターの食堂で、お茶を飲みながら。
母が「ここにいるとね。みんながどんどん歳をとっていくのがわかるのよ」と言う。
それって、どういうことなんだろう?

少しすると他の方がケアの方と車椅子で、お人形と一緒に隣のテーブルに。人形は前の席に。
お茶とお菓子をいただいておられる。そして何度も立ち上がられて前に向かっておじぎをされている。

食堂のボードに誰かの書がいくつか張ってあった。その話題から、
母が「父は字が下手な人でね。ある時から、近くの書の先生に習い始めたの。そのうちにちゃんと見られる字になって、襖に書くまでになった」と。しばらく間をおいて「母はそういう習い事をすることがなかった」と。。。

「でも、おばあちゃんは縫い物をしていたよね」と私。
母が「洗い張りって、知ってる?」「知ってる」
「母は私たちの使った着物が汚れたり小さくなると、全部、ほどいて洗って伸子ばりで張って乾かして、もう一度、丈を直して縫い直していたのよ」

そうなんだ!そういう時代があったのだ。
私の母は93才、祖母のその話は80年前の話であろう。とても趣味の習い事なんて時代ではなかったような。今とはずいぶん違う。。。

祖父は田舎の医者だったけど、その昔、盆暮れにしか治療費を払ってもらえず、祖母が縫い物をして家計を支えたと聞いている。私が覚えている祖母はそういう時を超えて、のんびりとひなが一日、あれこれ縫い物をしていた。

母が「私が小さい頃のこと。私がいなくなったことがあったそうで、みんなであちこち探しても見つからず。。兄が塀の上にのって、私がひとりで帰ってくるのを見つけた。」と急に言う。「そうなの。覚えているの?」遠くを見つめるように「その頃の景色を覚えている。」と母は言う。描くことができれば、それは鮮明に描けそうな雰囲気が伝わってきた。

その後、最近のことを少し話題にする。
隣の方は相変わらず、立ち上がって、おじぎをされている。

と、母との会話が途切れて。。。

母が「お母さんは着物をほどいて、洗い張りをして。。。」あら、また元に戻った。
母は子どもの頃に戻っていっている。祖父と祖母の子どもだった頃に。

まるでそれを察したように、母が「どんどん子どもに近くなっていくのよね」って。
これが歳をとるってこと。なのかな。