雨の合間に
2週間前、神戸に行ってました。しばらく居るつもりでした。けど、このところのコロナ感染の増加で但馬に帰った方が良い、息子は今の感染の上昇傾向はマズイとの判断でした。70歳過ぎた私たちは重症化するから当然のことだと思います。
ということで、ここに帰って10日間になります。毎日、家にこもる日々となりました。運動不足になってしまうので、雨雲レーダーの動きを見ながら、雨の降らない時を見つけて、自転車で走ってます。で、マスクをしていると蒸してくるので外すことが多いのです。
と!、声をかけられます。でも止まらないで「こんにちは!」と通り過ぎます。今は蜜を避けないといけないですからね〜 マスクをしてないと近寄ることができません。そんなわけで申し訳ないけど、通り過ぎてます。
田舎なので若い人以外は知り合いばかりです。でも最近は誰だっけ?と思うことが多くなりました。知り合いが年齢を重ねてしまって・・・ 私の場合、しばらくこの地に居ないことが多かったので徐々に年齢を重ねていくのを見るという緩やかな時間の経過がなく、ひとっ飛びに数年が経過しているので一瞬、誰だっけ?となってしまうことが多くなりました。多分、向こうもそうなんだと思います。
時に、ああ、この家の前で「元気にしてる?」などと声を掛けあった人はもういないと思いながら、通り過ぎることがあります。その時の笑顔を思い出し、ふっと淋しさを感じます。
この地に越してきて40年、私の人生の中で最も長い居住地になりました。子ども時代を過ごした岐阜時代よりもその後の東京や横浜時代よりも長くなりました。今、岐阜の実家があった場所に行っても全く知らない場所となってしまいました。いつの間にか住宅地に変わってしまった田畑や小山、子どもの頃、小川で遊んだ場所を見つけるのは至難です。私の記憶の中には今だに存在しているのですが。そしてそこで同級生の姿を見つけることも無理です。お互いに老けましたから。
私の住む但馬で大きく変化した場所は高速道路のインターチェンジ(IC)が設置されたところでした。この場所は広々とした大きな空間をもった田んぼでした。初夏には緑、秋には黄金の大地となる素晴らしい場所でした。その真ん中に立つと、ちっぽけな自分を感じて、悩みも吹っ飛ぶようでした。
但馬は山と山に囲まれた狭い空間に人々が暮らしてます。人々は山裾に家を立て、真ん中に農地という暮らしをしてきました。その中で最も広い空間だったのです。
この写真は道路で寸断された片側です。道路の反対側にも同じように農地が広がってます。高速道路は山に向かって伸び、先はトンネルになってます。下にはみやげもの店、食堂、コンビニなどが出来ました。
今でも広いとは思うのですが。明治時代に鉄道が通って、でもこの場所に駅は困る、大切な農地が失われないように駅は離れた場所に建てられました。線路は山裾に。そして移動手段が鉄道から自動車に移行する時代になって、結局、ここにICが出来ました。
最初は高速道路はここまででした。降りて来た車はしばらく、この地を潤しました。けど今、道はもっと先まで延長されて、通り過ぎる車が多くなりました。交通手段が変えていく、人々の暮らしの変化をかいま見ました。
今はコロナのせいで鉄道や高速バスの利用が減ってます。個人の車で移動したり、買物には行かず通販で家まで運んでもらうなどが多くなってます。それが続くのでしょうか?
今後、どうなっていくのか、今は先が読めません。
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