カウンセラー?
子どもと共にいること。
私は遠い昔、保育の現場で働いていた頃、同僚から、あなたは「何も構えず、こどもに入っていけて良いわね」と言われたことがあります。たしかに初めて会う子どもを受け入れる時にどう受け入れようとか、など考えたことがなかった。
何の抵抗もなく子どもと共にあるから。いつだって子どもの心に触れることは難しいことではなかった。それに子どもの遊びの発展に付き合うのは楽しかったのです。若かったから、全身で臨んでました。
それから時が過ぎ去って、自分の子どもも成長したある日、そんな話を友人にした。そうしたら、その友人が言うには子ども好きのはずなのに私が他の子どもがいても全く興味を示さないし、一緒に遊ばないのはどうして?と。子どもが好きではないのではと。
私は子どもと自分が遊ぶことを目的に子どもに接していないのです。保育者は子どもの全てを受け入れる立場にあって、その間、その人の人生と向き合っています。遊びは子どもの成長にとって、とても重要です。遊びが全てなのかもしれません。遊びをとおして、自発性、積極性、集中力、探究心、社会性などを身につけていくのです。それはこちらのペースで行われるものではなく、子どもが決めていくものなのです。それを受け入れ、見守り育てるのが保育者の立場なのです。
だから自分からは行動しないし、遊ばせることもないのです。求められれば、自然に入り込むことができる体制は常にあるのですが。必要がないところでは何もしないのです。それは常に変わらない私の姿勢です。
自分の孫にも同じです。可愛いから、いろいろ遊具も揃えていますが、遊んであげることはしません。でも孫は私のところに来るのが好きで、特に少し精神的に不安定になるとやってきます。しばらくいるとすっかり笑顔になって帰っていきます。特に何をしているわけではないけど。。
そういった姿勢からか、なぜかわからないけど、私は不安な人の心に抵抗なく入り込んでしまうことがあります。そして、いつのまにかカウンセラーになっている自分を発見する時があります。それを長い間、すっかり忘れてました。つい最近、会った人の心に入って、そうなっている自分に気づいて思い出したのです。
本来、もっている自分の性格?を再確認しました。
カウンセラー!?
でも私はその人と一緒に心を動かすので心の消耗が激しく仕事にしたら向いてないのです。
孫が求めた時に受け入れる、おばあちゃんカウンセラーが適しているのかもしれません。
親友
ずいぶん長い間、ゆっくりと話すことがなかった友達。
大学に入って、最初の出会いはもう覚えていないけど、どういうわけか、とても気があって、いつも一緒だった。青春時代の多感な時期、話すことがいっぱいあって、毎日、出会っていても尽きることがなかった。読んでいる本の話、好きな詩集のこと、恋の話などなど、声をだして話すとまずい授業中には筆談したりしていた。
何が原因だったか覚えていないけど、喧嘩したことがあって、授業中、違う場所に座る一週間があった。他の友人達がヤキモキして気にしたほど、仲が良かった。そんなこともすっかり忘れていた。遠くに離れてしまうと会う機会が減って何年もお互いの空白の時代ができてしまった。
久しぶりに会って食事をしながら、最近のお互いの話をした。
同級会などで同級生に会うと昔はこんなことがあったとか、その頃はどう思っていたとか、今は何をしているといった表面的な話で終わることが多いし、次にまた会おうと別れても次はないことが多い。
親友というのは何年も会ってなくても、会うとお互いの琴線に触れる話にいつのまにか入り込んでしまうらしい。あの青春の多感な日々を共にしたからなのか、それとも同じ波長のせいなのか。彼女の話は面白かった。年を重ねてこそ、わかる人生の深み、ふっと肩の荷が降りるようないい話を聞いた。
若かった時代、彼女はバイオリンを弾いていた。今はチェロにすっかり嵌っていると前に会った時に聞いた。とてもナイーブな人だから、チェロの音に惹かれたのはなんとなく解る。「すごく落ち着くの」って。
彼女に会って、私自身、忘れていた何かを取り戻した気がする。最近、ふと我に返って自分をみつめていた、ちょうど良いタイミングでもあって。。。
彼女も楽しかったらしい。今度は彼女達夫婦と会う約束をした。私と彼女と彼は同じサークル仲間だった。(^-^)
親友って、いい!
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